メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

バブルの怪人への乱脈融資に突き進ませた母体行への対抗心

【9】末野興産に入れ込んだ九州リースサービスの悲劇/1996年

大鹿靖明 ジャーナリスト・ノンフィクション作家(朝日新聞編集委員)

 長く経済取材をしていると、功名心や復讐心、対抗心といった経営者の個人的な感情が経済合理性や理性的な判断を上回り、企業の運勢を大きく変えてしまう出来事に遭遇することがある。しょせん、企業トップも「人間」である。いっときの時代の空気に呑まれ、それに個人の功名心も手伝って、後から振り返ると愚かしいことに手を染め、企業を存亡のふちに追いやってしまう。取材を通じて、そんなことを初めて実感したのは、福岡に勤務していたころ追いかけた九州リースサービスの不良債権問題だった。

子会社に追い出されグループ統制に服さぬ「関東軍」の拡大路線

 九州リースサービスは1974年、福岡の第二地銀である福岡シティ銀行と、日本長期信用銀行系の日本リースの業務提携によって、九州地場のリース会社として誕生した。オフィス用品や飲食店の厨房機器、自動車などのリースという堅実な業務を担ってきた同社が、その業容を大きく変えるのは80年、福岡シティ銀行常務から転じた元石昭吾が社長に就任してからであった。

福岡シティ銀行常務取締役のころの元石昭吾氏=西日本シティ銀行のウェブサイトから
 福岡シティ銀行(前身の福岡相互銀行)は四島一二三が創業し、69年に息子の司が後を継いだ。銀行には珍しい同族経営の会社だった。元石は先代の一二三にかわいがられたものの、跡継ぎの司とはしっくりいかない。主流の営業部門にいたのに次第に外され、ついには九州リースの社長に追い出されてしまった。

 先代の一二三は謹厳な頭取だったが、二代目の司は型破りで毎晩のように飲み歩き、美術品の収集に熱をあげた。それを元石は冷ややかに見る。やがて二人は決定的に対立した。現代美術のコレクターだった四島司が、シティ銀行グループ各社に対して美術品の購入資金を割り当てた際に、九州リースの元石は「なんでウチの会社が、頭取の道楽のために美術品の購入代金を負担しないといけないのか」と突っぱねた。以来、二人の関係は隙間風が吹き、九州リースは、福岡シティ銀行グループ内にあって、まったく別動隊のような動きをするようになる。いわば統制に服さない関東軍のような存在である。

 「元石さんは『今に見ておれ、四島なにするものぞ』という気持ちが強かった。それまではちっぽけなリース会社だったのが、元石さんが拡大路線をとっていったんです。福岡シティ銀行から融資先を紹介されたわけでも斡旋されたわけでもなく、独自に融資先を開拓していったんです」(北山嘉彦元専務)。

 九州リースは82年に融資業務に参入し、88年には福岡証券取引所に上場した。地銀系のノンバンクとしての上場はきわめて珍しく、九州リースはシティ銀行グループの中で最も勢いがあった。16人の取締役・監査役のうち8人はシティ銀行出身者だったが、しかし、古巣への感情は微妙だった。「本当はもっと銀行にいたかったけれど、こっちに来ることになってしまったんです」(菊池為雄元常務)と、屈折した心情を抱いていた人が少なくなかった。

 九州リースは、人材を母体行のシティ銀行に頼るのではなく、都内の有名大卒のUターン希望者に求めた。融資先もシティ銀行の影響力が強い福岡を離れて、東京や大阪へ拡大していった。日本中がバブルに浮かれていた時代だった。元石は、四島司頭取の出席する経済人の会合で「これからは銀行の時代ではありません。ノンバンクの時代です」と、これみよがしに熱弁をふるったこともあった。

 地価も株価も右肩あがりだった。九州リースの91年の長期借入金3200億円のうち、長銀からの借り入れが500億円を占め、シティ銀からのはわずか3億円に過ぎなかった。そうやって調達した資金を、東京や大阪の見ず知らずの不動産ディベロッパーやゴルフ場に湯水のように注ぎ込んでいった。

福岡相互銀行社長のころの四島司氏。1989年に福岡シティ銀行と商号変更し頭取に。81年から全国相互銀行協会会長を務め、「相互銀行の普通銀行への一斉転換」を89年に実現させた

「大蔵省から天下りした連中ががっぽりやってた」「審査が甘くなるのはやむを得ぬ」

 その多くが、バブル銘柄だった。後に長銀を破綻に追いやるイ・アイ・イ・インターナショナルに98億円(90年3月末時点)、阿部文男北海道沖縄開発庁長官への贈収賄事件の舞台となる鉄骨加工会社の共和に77億円(同)、そして極めつけが、大阪の末野興産だった。

 九州リースは末野興産とそのグループ会社にピーク時278億円(91年3月末時点)もつぎ込んだ。四島の回顧録「殻を破れ」(2008年、西日本新聞社)によると、実際は380億円にものぼった。このときの同社の全融資額(2867億円)の1割を超える大口貸出先だった。

【左】末野興産の末野謙一社長=1996年2月【右】末野興産は「天祥ビル」の名がつくビルを多数所有。96年11月に破産宣告を受けたが、違法建築も多く買い手がつかない状況が続いた=97年11月、大阪市中央区
 こうした融資を主導したのが元石だった。

 私が95年4月に福岡に異動して間もなく、末野興産の過剰債務など不良債権問題が次第に顕在化していった。九州リース関連の不動産登記簿と法人登記簿を上げ、有価証券報告書を分析し、さらに所在のわかっている関係者を総当たりするという、後々まで続けることになる取材手法を身につけたのは、このときだった。

 隠居場所を割り出して元石にインタビューしにいくと、すでに社長の座を退いていた彼は初めは「そんなことはどうちゃら、こうちゃら、言いたくないね。警察だったら行きまっせ。別に新聞記者にべちゃくちゃ話すようなことじゃない」と拒絶する感じだったが、すぐに客間に招き寄せ、熱弁をふるった。

 「なんで末野に貸したかというと、九州リースは上場したし、利益を出さんとならん。それと住専の連中ががっぽりやっているからね。大蔵省から天下りした連中ががっぽりやっておったからね。だから、これは間違いない、と。そのようなことたい」

 「末野が前科者かどうか調べたけれど、そんなことはない。なら、いいじゃないかなーと。本当の銀行のルールからしたらねー、やっぱりやりにくいところだったけれど、さりとて金はいくらでも貸してくれたから。そうしたら、やっぱ利幅を取ろうとね」

 住専とは住宅金融専門会社のことで、1970年代に個人向け住宅ローンを専門に扱う金融会社として相次いで設立された。これら住専各社には大蔵省の天下りがいた。当初は銀行と業務範囲を住み分けていたのだが、やがて銀行が個人向け住宅ローンに参入し始めると、住専の存在意義は揺らぎ、代わる収益源を求めて不動産融資にのめりこんでいった。その融資先の代表例が、大阪や福岡の繁華街に「天祥ビル」という名称のテナントビルを数多く持つ不動産会社、末野興産だった。

 元石が言っているのはそのことである。

住宅金融専門会社の大口借り手だった末野興産が所有していた「四ツ橋天祥ビル3号」=1996年2月2日、大阪市西区
 「みんなが末野に貸していたからね。みんなで渡れば怖くないというのがあったね。政府が絡んだ大蔵銀行みたいなの(住専各社のこと)が、がんがんやっている。そうなると、どうしても安易な方にね。まあ、みんながやっているからいいじゃないか、と。多少審査が甘くなったのは、やむを得ないね」

 「実は融資を決める前に3年分の決算書を見るんだが、見ると2、3の瑕疵があった。ふつうはそこで融資はやめるものだけど、当時は多少の瑕疵があってもガンガン融資していた」

 あまりにも、あけすけな言い方に聞いていてびっくりした。これが銀行の元常務なのか、と呆れてしまった。

巨額の不良債権発生。末野社長に逃げられ返済交渉進まず

 元石が想定していたような右肩上がりの時代が続くわけもない。バブル経済がはじけて地価が下落すると、担保価値は大幅に下落し、巨額の不良債権が発生することになった。それに加えて、元石の背筋を寒からしめたのが、末野謙一社長が91年7月、福岡・中洲の歓楽街に建築基準法に違反したビルを建てたとして福岡県警に逮捕されたことだった。

 「あれで、こりゃまずいと思った。逮捕されたときの警察の見立ては暴力団と関係がありそうだというものだった。大阪であれだけ歓楽ビルをやっていたら『そういうつながりもあるだろう』とは思った。だからあの事件をきっかけにこれ以上、融資を増やすことはやめようと思った。調べてみると大阪の末野のビルも違法建築だらけで、容積率以上のビルを造って、いっぱいテナントを入れて稼ごうとしていた。そのときから株を返してもらおうと思った」

住専処理問題を審議する衆院予算委に参考人招致され、手を上げる末野謙一・末野興産社長。右は同じく参考人招致された、井上時男・住宅ローンサービス社長=1996年2月15日、国会
 九州リースは末野興産を優良貸付先と思い込み、自社株を買ってもらい、同社は一時16位の大株主だった。

 「当時は九州リースは上場直後だったからね。安定株主がほしかったの。末野は急成長していたから、これなら安心できるな、と。ちいとばかり持ってくれんかねと、持ってもらったわけだ。しかし、だんだん変な人間とわかってきたからね。あとで末野からもっとやばいところに株が流れたらまずい。スジ者に流れて株主総会にでもこられてみなさい。どんな問題を起こされるかわかったものではない」

末野興産の末野謙一元社長=1996年4月18日、大阪市都島区
 以来、元石は大阪に日参して融資の返済交渉と株の譲渡交渉を進めようとするが、末野社長は会ってくれず、交渉は遅々として進まない。「元石は何度も大阪に行ったけれど、向こうに逃げられて会えないんだよ。結局、末野の社長がこっちに来ることになったのだけれど、実際に来たのは代理の人だった」(帆足行敏元監査役)という。

 末野興産はピーク時には1兆円近い負債を抱えたが、借りた金を返さないうえ、返済交渉のテーブルに座ることすら渋る。末野は、担保となっている土地に賃借権をつけたり、グループ会社名義にしたり、権利関係を複雑にしていた。

末野興産が所有していた大型クルーザー=1996年3月11日、兵庫県西宮市
 「あんなことをされたら権利が錯綜して大変。しまいには訳が分からなくなる。だから検察や国税を動員して一気に解決するよりほかに手がなくなる」

 そう元石は言った。

 膠着した事態を破ったのは、母体行の福岡シティ銀行の四島司頭取だった。当時、銀行は大蔵省、ノンバンクは通産省の所管だったが、大蔵省は「母体行責任」論をとり、生みの親の銀行に後始末を命じたのだった。それを錦の御旗に四島が乗り込み、元石と喧々諤々のやりあいになった。「すごいやり取りがありました。四島さんが『やめろ』といい、元石が『なんで俺がやめなならんのか』と突っぱねて。真っ赤な顔でむくんでいました。末野と四島さんとの確執で元石は高血圧がひどくなって、体調が悪くなってしまったんです」(帆足元監査役)。

 結局、乱脈融資の責任を問われて元石が放逐され、元石体制下の役員も総退陣し、福岡シティ銀行主導で92年以降、経営再建が進むことになった。「四島頭取は俺のことを悪く言うだろうな。全部やったのは俺だったから」と、さすがに元石も少し反省した口調だった。

・・・ログインして読む
(残り:約2160文字/本文:約6500文字)