原発事故避難者となったかつての原発推進者が描く、再エネとカーボンニュートラルの未来
コスト高の原発を見切り、太陽光と洋上風力を電源の二本柱にすべきだ
北村俊郎 元日本原子力発電理事
富岡町の自宅に帰れぬまま11年
今から20年前に福島県の富岡町に自宅を建てた。そこは福島第二原発から北に4キロ、事故を起こした福島第一原発から南に7キロの地点だ。
快適な田舎暮らしが始まって10年後の2011年3月11日、東日本大震災に遭遇した。庭に飛び出したが大きな揺れはいつ果てるともなく続いた。高台だったため津波は届かず、家屋に大きな損傷もなかったが、翌朝、防災無線で全住民に対し、福島第一原発で事故が発生したので町外に避難するよう指示があった。それから11年、我が家に帰還出来ないままである。

帰還困難区域にある自宅に一時帰宅し、枯れた庭の木の手入れをする北村俊郎さん=2021年1月29日、福島県富岡町
大学卒業とともに原子力発電の専業である日本原子力発電に入社し、その後は日本原子力産業協会に移籍するなど、私の職業人生は原子力一筋だった。地域住民の一人として避難しながら、長らく原子力に関わってきた者として、「原発の必要性があったにせよ、住民をこのような目に遭わせてはいけない」と強く思った。
突然の避難は困難を極めた。その様子を記録し伝えることが使命であると感じ、当時在籍していた協会に状況をメールで送りつづけた。原発の状況が落ち着き始めると、今度は何故、事故対応や避難がこれほどまでに混乱したのかについて考えるようになった。それらをまとめて『原発推進者の無念』と題する本を書き上げた。
長期的な避難先を決め生活が落ち着くと、事故原因の背景にはどのような組織上の問題があったのかが気になり、原子力開発の歴史を振り返り、仕事で経験したことを踏まえて分析を進め、わかったことを書き留めた。それを本にしたのが昨年秋に上梓した『原子力村中枢部での体験から10年の葛藤で掴んだ事故原因』である。
避難当初は、原発の再稼働など原子力業界の現状ばかりが気になったが、次第にエネルギー全般を考え、幅広い情報を求めるよう私自身変化した。その結果、私も含め関係者が、原子力村という狭い世界からしか物事を見なかったことが事故を予見出来なかった要因のひとつであると思うようになった。日本のエネルギー政策のあり方を考える時、原子力関係者も原子力ありきの立場から離れて俯瞰的、現実的に考える必要がある。