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国は原発事故「避難者」に帰還の意思をこまめに確認し、正確な数字を発表すべきだ

復興庁の集計も避難指示12市町村の発表も実態と乖離している

北村俊郎 元日本原子力発電理事

 福島第一原発の事故から11年半を迎えようとしている。

 筆者は福島県富岡町の自宅から約150キロ離れた福島県須賀川市に移り、帰還できる日を待ちながら、とりあえず購入した中古の家で避難を続けている。

 自宅は帰還困難区域にあり、草刈や家のメンテナンスのために敷地に立ち入るには、あらかじめ手続きをした上で、監視員のいるゲートを通過し、午後4時には区域から退出しなくてはならない。年間の立ち入り回数も上限がある。

 国は昨年8月末、「帰還困難区域を2020年代に解除する」という方針を決めたが、それから10ヶ月後に開催された富岡町の町政懇談会と、それにつづき実施された帰還困難区域住民に対する説明会でも、内閣府の辻本圭助原子力災害現地対策本部副本部長からは、その方針が繰り返し語られただけであり、自宅周辺の除染がいつ始まるかも見えてこない。

帰還困難区域にある自宅に一時帰宅した際、庭の除草作業をする住民=2018年5月20日、福島県富岡町拡大帰還困難区域にある自宅に一時帰宅した際、庭の除草作業をする住民=2018年5月20日、福島県富岡町

原発事故の避難者の数は不明

 東日本大震災・原発事故では、多くの人が住処を離れ避難した。福島県の場合、宮城県や岩手県と比べると地震と津波による被害は少なかったとはいえ、相馬市、南相馬市、浪江町、いわき市など太平洋岸では、地震と津波で一部住民は避難した。

 ただ、その直後に原発事故が発生し、原子力災害対策特別措置法による国からの避難指示が出たため、福島第一、第二原発周辺の大熊町、双葉町、富岡町、浪江町、川内村、葛尾村、飯館村、楢葉町、広野町の6町3村の全域と南相馬市、田村市、川俣町の2市1町の一部では、直ちに全住民の避難が行われた。

 さらに、国からの避難指示が出なかった郡山市などの地域からも、原発事故による健康影響を恐れて自主的に避難した人もいた。

 大津波に襲われた地域は、10年後の今日、福島県の帰還困難区域を除き復旧が進み、帰還を望んでいた人は戻って家を再建、あるいは復興住宅に入居した。事業者も事業を再開、人々も元の職場に戻っている。福島県の浜通りでも、原発事故で出されていた避難指示が、帰還困難区域を除いて徐々に解除され、そこに戻って生活をすることが可能になっている。

 しかし、避難指示が解除されても、さまざまな理由で戻らない住民が数多くいることも事実だ。なかには避難先で土地を購入し、そこに家を新築し、仕事も子供の学校も決まり、生活基盤ができてしまった人もいる。一度は戻ったものの、生活に不便さを感じて再び別の土地に移った人もいる。こうした複雑な状況のなかで、福島県で東日本大震災・原発事故で当初避難した人が何人いたか、そして現在は何人いるのか定かでないのだ。

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筆者

北村俊郎

北村俊郎(きたむら・としろう) 元日本原子力発電理事

1944年、滋賀県生まれ。1967年慶應義塾大学経済学部卒業後、日本原子力発電株式会社に入社。本社のほか東海発電所、敦賀発電所、福井事務所など現場勤務を経験したのち、理事・社長室長、直営化プロジェクトリーダーを歴任。主に労働安全、教育訓練、地域対応、人事管理などに携わり、2005年に退職。福島県富岡町に移り住む。同年から2012年まで社団法人日本原子力産業協会参事。福島第一原発の事故により、現在も避難を続けている。著書に「原発推進者の無念」(平凡社新書)「原子力村中枢部での体験から10年の葛藤で掴んだ事故原因」(かもがわ出版)がある。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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