JR東日本を「ハブ」とする構想はなぜ消えたのか
2022年07月14日
コロナ禍前、すでにJR北海道・四国は抜本的対策を要する深刻な構造的赤字状況に陥っていたにもかかわらず(2019年12月24日付拙稿「JR北海道を三分割せよ」など参照)、実質的に100パーセント株主である国は、今日に至るまで持続不可能な弥縫策で延命を図ることに終始している。また、JR九州は国策に沿った無謀な新幹線推進で、その鉄道事業に持続可能性がないことは、これも同年11月08日付拙稿「長崎新幹線はJR九州破綻の始まりだ」で示したとおりである。
一方、コロナ禍に見舞われるまで、JR本州3社(東日本・東海・西日本)は収益の安定した優良企業として、その経営は盤石に見えた。とはいえ、10年前に公刊した拙著『鉄道は生き残れるか』で指摘していたとおり、まことしやかに唱えられていた鉄道復権論は幻想に過ぎず、旅客鉄道が衰退産業であることは、事実を直視すれば明らかであった。まさか鉄道輸送のプロであるJR経営陣が根拠なき鉄道復権論に幻惑されてはいなかっただろうし、輸送量減少の長期的トレンドを見据え、今後の鉄道のあり方について検討を進めてきたに違いない。しかし、コロナ禍による輸送量激減で、もはや時間の猶予はなく、鉄道生き残りに向け、1987年の分割民営化以来の改革が待ったなしである。
第二次大戦後、占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示に基づき運輸省から分離され、公共企業体として1949年に発足した日本国有鉄道(国鉄)は、38年後の1987年に分割されJR体制に移行した。それから35年たち、JR各社は果たして国鉄の二の舞となることを避けることができるであろうか。角本良平元国鉄監査委員(1942年鉄道省入省)が1975年に国鉄の地域分割を唱えたとき(『高速化時代の終わり』)、国鉄関係者はほとんど誰もまともに取り合わなかった。しかし、その12年後、国鉄は解体されたのである。
今一度、国鉄改革が目指したものは何だったのか、それを実現することはできたのか、検討してみることも無駄ではないであろう。まず、今では忘れられた国鉄独自の最後の改革案から始めてみたい。
1985年1月、国鉄は抜本的改革案として「経営改革のための基本方策」(以下「基本方策」)を公表する。しかし、「基本方策」は中途半端な改革案として、亀井正夫住友電工会長を委員長とする国鉄再建監理委員会(以下「監理委」)に厳しく批判され、大手マスコミも「監理委」を支持、国鉄再建はもう現経営陣には任せられないという流れとなって行く。そして、国鉄経営陣が頼みの綱とする田中角栄元首相が2月に脳梗塞で再起不能となり、中曽根康弘首相は6月に仁杉巌総裁(1938年鉄道省入省)を解任、杉浦喬也元運輸事務次官(1951年入省)が新総裁に就任した。そして、7月に、監理委は最終意見として「国鉄改革に関する意見――鉄道の未来を拓くために――」(以下、「意見」)を中曽根首相に提出する。法律で「内閣総理大臣は、委員会から……意見を受けたときは、これを尊重しなければならない」とされ、実際、この「意見」に基づき、国鉄は分割民営化され、1987年4月にJR体制がスタートした。
「基本方策」の何が問題だったのか。
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