【12】大賀元会長との暗闘「道連れにするのが俺の最後の仕事だ」/2005年
2022年08月04日
ソニー元社長の出井伸之が6月2日、亡くなった。出井時代のソニーは、「デジタル・ドリーム・キッズ」というスローガンを掲げ、パソコンのバイオ、ゲーム機のプレイステーション、平面ブラウン管テレビのベガで1990年代後半のエレクトロニクス市場を席巻するとともに、執行役員制度の導入や社外取締役の大胆な活用などコーポレート・ガバナンス改革にも先鞭をつけた。いわば彼はソニー全盛期のリーダーだった。しかし、栄耀栄華を極めたころに凋落の兆しが芽生えるものである。出井もそうだった。彼が導入したコーポレート・ガバナンス改革が逆に彼を追い落とす道具に使われた。
出井は2005年3月7日、「ちょっぴり寂しいが次世代のページをめくったことの方がハッピー」と述べ、無念の表情を浮かべた。だいぶ白髪が増えた印象を受けた。高輪プリンスホテルで開かれた会長退陣の記者会見でのことである。「執行側から提案した」と切り出し、ハワード・ストリンガーを会長兼グループCEOに、中鉢良治を社長に起用することを発表した。そのうえで自身を含めて安藤國威社長、久多良木健副社長ら7人の社内取締役が一斉に退任することも公表した。それは「社内政変」とも呼ぶべき大胆な経営陣の交代だった。出井は「この陣容は私と安藤が決めたことです。OBや委員会が経営するのではありません」と説明したが、社長交代の記者会見で「OB」や「(指名)委員会」という言葉が出てくることに不自然さがあらわれていた。
出井は、経営陣刷新について「執行側が切り出した」と言明したが、取材を進めていくと、そう単純なことではないことがわかってきた。
ソニー神話を書き換えた出井時代が暗転したのは2003年のソニー・ショックがきっかけだった。03年1~3月期決算でエレクトロニクス部門が大幅な赤字になることが明らかになって株価は暴落し、それまで快進撃を続けていたソニーが一転して坂道を転げ始めた。04年暮れのクリスマス商戦でもソニーは不振だった。平面ブラウン管のヒットに慢心し、「トリニトロン」ブランドのブラウン管がまだ延命できると錯覚した。液晶やプラズマなど薄型テレビの開発に出遅れ、シャープの後塵を拝した。何より基幹部品である液晶を自前で量産できず、あろうことか韓国のサムスン電子の軍門に降る始末だった。DVDレコーダーの開発もパナソニックに出遅れ、一昔前の半導体をかき集めた「スゴ録」を投入し、アナリストやAV評論家の失笑を買った。
「あららと思ったのは04年の歳末商戦だった」。元副社長の金田嘉行は言った。
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