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良好な日印関係を歴史的にひもとけば

浮かび上がるインド独立の英雄と大日本帝国の「アジア解放の夢」

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

 日本のアジア地域における立場はかなり微妙なものだと言えるのだろう。韓国を一時植民地とし、中国を侵略した歴史をもっていることから、日韓関係、日中関係は時としてぎくしゃくしがちなのだ。韓国の対日感情、中国の対日感情はそうした歴史的展開を反映して、必ずしも良好なものではない。

チャンドラ・ボースとF機関

 こうした中で目立つのは日印関係の長期的親密さである。第二次世界大戦中、欧米と闘っていた日本は、当時イギリスの植民地だったインドの独立を支援していた。そして、インドもまた親日的感情が強かった。1943年に日本に亡命し、インド国民軍の総指揮官として日本軍とインパール作戦に加わったインド独立運動の雄チャンドラ・ボースはそうした親日的インドの象徴的存在だと言えるのだろう。

ボース歓迎会大東亜会議で来日した自由インド仮政府主席チャンドラ・ボースの歓迎会。財界人らに囲まれて挨拶するボース=1943年11月3日 東京・三田綱の渋沢子爵邸

 西ベンガル州の州都コルカタ(旧カルカッタ)はイギリスがインド支配の拠点として建設した町だったのだが、それだけに19世紀末から20世紀にかけてインド独立運動の中心地になっていった。特に1886年に第2回国民会議がここで開かれて以来、独立運動を主導する国民会議派の拠点になったのだった。チャンドラ・ボースは会議派の若手左派・学生・官民・女性とも連携し、ジャワハルラール、ネルー等と共に独立運動を大きく展開していた一人だった。

 他方、日本は1941年、大川周明などの影響もあり、対インド工作の為に藤原岩市少佐を長とする藤原機関(いわゆるF機関)を立ち上げ、インド独立を支援することを表明し、アジアに於ける対英戦争で日本側に立つインド部隊の創設を目指したのだ。

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