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軍部独裁の悲劇の始まり「二・二六事件」を思う

榊原英資 (財)インド経済研究所理事長、エコノミスト

 2月に起こった過去の大事件と言うと、まず頭に浮かぶものの一つが、「二・二六事件」だろう。現在の自衛隊からは想像もつかないが、戦前の軍隊ではいくつかの大事件や反乱が起きている。日本全体、特に農村が疲弊していたこともあって、農村出身者が少なくなかった軍人たちの多くは、日本の将来について、かなり強い危機感を持っていたのだった。

 周知のように、二・二六事件とは1936(昭和11)年2月26日から29日にかけて発生したクーデター未遂事件。皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1483名の下士官兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞が関などの一部を占拠したが、最終的に青年将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、自決した一部を除いて投降したことで蜂起は終息した。

二・二六事件で27日夕から29日午後まで、反乱部隊の拠点となった山王ホテル。写真は山王ホテル前の戒厳軍部。1936年2月27日 東京都港区赤坂反乱部隊の拠点となった山王ホテル(東京・赤坂)の前に陣取った戒厳軍部=1936年2月27日

「五・一五」の処断の甘さが「二・二六」を後押しした

 昭和初期から陸軍では統制派と皇道派が対立し、また、海軍では艦隊派と条約派が対立していた。そして、皇道派の青年将校たちが決起したのが、二・二六事件だった。実は、二・二六事件の4年ほど前、「五・一五事件」(1932年5月15日)が起きている。決起したのは海軍将校の一部。時の首相犬養毅を暗殺し、首相官邸、日本銀行、警視庁などを襲ったのだ。11月5日までには、全員が検挙されたが、この事件を契機に、政党政治は弱体化し、軍人が政治に強く関与するようになった。

 五・一五事件の首謀者たちは無期懲役刑や15年の懲役刑などを受けるが、紀元節の恩赦などによって減刑され、多くが仮出所していた。当時の政党政治の腐敗に対する反感から実行犯の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものになったのだった。このことが後に起こる二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、実際二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑については楽観視していたという。

 しかし、二・二六事件の主犯者たちは極めて厳しい刑罰を受けることになる。

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