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アベノミクスは「終わってしまった近代」の幻影を追ったドン・キホーテだった~水野和夫・法政大教授に聞く(前編)

「成長があらゆる問題を解決する」が当てはまるのは資本家だけ

原真人 朝日新聞 編集委員

何のためのイノベーションなのか

――アベノミクスの第3の矢は文字どおり「成長戦略」です。ただ、それは安倍政権に限らずこの何十年も歴代政権が打ち出してきたことです。経済学はここ数十年、サプライサイド(供給重視)が主流だったので、政治も経営者も「供給側さえ強くすれば景気がよくなり経済が強くなる」という発想になっています。あとはトリクルダウンで生活者も豊かになるという発想ですね。それがまちがっていたのでしょうか。

水野 供給サイド経済学の大本はイノベーションです。技術革新を起こさないといけない。近代社会のイノベーションというのは、より遠く、より速く、でした。ジェームズ・ワット(1736-1819)が開発した蒸気機関がもたらした効果を、当時のジャーナリストは「結合」と言ったそうです。欧州と米国をつなぐ定期航路ができて大陸がつながったのです。何月何日の何時ごろに欧州からの荷が米国の港に届く、ということの確実性が増しました。

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 産業革命は今、「第4次」と言われていますが、その中心となるITだって(効果は)結合です。蒸気機関と違う発明だと言いたいので第4次と言っているのでしょうが、結合という観点でいえば第1次の延長線上でしかない。人々は今、インターネットやメールでより短く結合している。その結果、より遠く、より速くの限界がいま来ています。

象徴的なのは、マッハ2のコンコルドが技術的な問題なのかコスト的な問題なのかわかりませんが、今世紀初頭に運航停止になりました。さらに太平洋航路のジャンボ機もその後、運航停止になりました。どちらも合理性に合わなくなったのです。情報の流通も同様です。米ウォール街で普及した(コンピューターで自動的に大量に株売買をする)高速高頻度取引は、10億分の1秒で取引をやってしまうそうです。これは国民の幸せとはまったく関係ない速さですよね。

――たしかに本末転倒になっています。何のための技術革新なのか。

水野 ニューヨークでやっているから東京証券取引所でもやるというのも、おかしな競争です。これも限界にきています。たとえば高速取引を10億分の1秒から100億分の1秒にできたからといって、どうなのかということです。これは中間層にはまったく関係ない話です。何十億円、何百億円の投資をする人だけがアクセスできる取引の話であり、ふつうの人にはまったく関係ない。

 国民国家体制というのは国民が幸せになる仕組みのはずです。国王や貴族だけが幸せになることでなくて。では国民が豊かになるというのはどういうことか。フランス革命は「自由と平等」を掲げました。「自由というのは所有の関数」と言ったのはカナダの政治学者、C・B・マクファーソン(1911-1987)です。うまいこと言うものです。所有物が多ければ多いほど人間の自由度は高くなる。自由に行動するためには所有権が必要というのです。

 たとえば今、ビリオネア(保有資産10億ドル=1300億円以上)と呼ばれる人たちが金融資産をどんどん増やしています。金融資産を保有していない人は日本でも2割強いますが、80年代後半は3%しかいなかった。つまりこの30年で資産をなくした人がいっぱいいたわけです。これは資産をたくさんもっている資本家のための自由はあるが、多くの国民はどんどん自由を失っている、ということになります。

目標は明日のことを心配しなくていい社会

――経済学者アンガス・マディソン(1926-2010)の長期経済推計調査によると、人類は紀元ゼロ年からずっとゼロ成長が続いていて、それが19世紀になると1人当たりGDPが2%成長に急激に上昇したそうです。そのころ所有権などの法整備が整ってきて、産業革命の技術の粋を資本にもっていける基盤が整ったから、とみられます。つまり所有権が成長を生んだことになります。所有権は民主主義、個人主義の基盤でもあるので、多くの人はこれを必要と考えているのではないですか。

水野 17世紀の英国の哲学者ジョン・ロック(1632-1704)は「所有権」の正当化を主張した人ですが、「所有権は正義でもあり悪でもある」と言っています。前後の文脈を読むと、豊かな人は死にそうな人を助けなければいけない、それも豊かな人の所有権に含まれている義務だと言うのです。

――欧州の富裕層には今もそういう思想が残っているのでしょうか。

水野 そうですね。ただ、だんだん社会が大きくなっていくと、倒れている人がどこにいるのかわからなくなる。それで生まれたのが福祉国家です。社会保険、失業保険、介護とか。ロックの思想をもとに、第2次大戦後の英国では社会保障制度の土台となったベバリッジ報告が出てきました。困っている人を助けようにもお金持ちはなかなか目が届きません。そこでその代わり累進課税にして、困っている人を救うための負担を金持ちにさせることにしたのです。その仕組みがいま崩壊しつつあります。

 世界のビリオネアの総資産は13兆~14兆㌦、日本円にして1600兆円超あります。もし、その半分でもコロナ禍の対策のために寄付していれば、800兆円が捻出できました。だけど、そんなことをビリオネアからは言い出しません。コロナ基金を作って病院を設けましょう、などという動きはなかった。欧州の伝統もなくなり、困っている人がいたら「自助努力が足りないからだ」ということになってしまいました。

――どうしたらいいのですか。

水野 経済学者のJ・M・ケインズ(1883-1946)が言っているのですが、経済学の目的である「豊かにすること」はあくまで中間目標です。その先にあるのは「明日のことを心配しなくていい社会」です。そのためには社会保障を充実しないといけない。困ったときには援助の手がさしのべられる。いまなら国家によってです。

 労働問題でいえば、非正規労働者が3年勤務して更新できないなんて問題も最近はあります。非正規労働、派遣制度はすぐやめるべきです。勤めている人の最大の特権は辞める自由です。だけどいまは会社が「辞めさせる自由」をもっている。これはおかしい。働く人は労働力を提供しないと生きていけない。だが資本家はAさんの労働力を買わずともBさんを買う自由がある。非対称的な力関係です。

 辞める権利は労働者側にはあるが、辞めさせる権利は会社側にはない、というような仕組みにしないといけない。そうなれば、人事担当は真剣に採用しないといけないし、入ってからの研修制度も充実させないといけないということになる。働いている人も、引退した人も、明日のことを心配しなくていい社会にしないといけない。


筆者

原真人

原真人(はら・まこと) 朝日新聞 編集委員

1988年に朝日新聞社に入社。経済部デスク、論説委員、書評委員、朝刊の当番編集長などを経て、現在は経済分野を担当する編集委員。コラム「多事奏論」を執筆中。著書に『日本銀行「失敗の本質」』(小学館新書)、『日本「一発屋」論 バブル・成長信仰・アベノミクス』(朝日新書)、『経済ニュースの裏読み深読み』(朝日新聞出版)。共著に『失われた〈20年〉』(岩波書店)、「不安大国ニッポン」(朝日新聞出版)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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