2011年09月05日
コラム一回目にいきなりこんなカミングアウトも切ないものだが、高校の時、大場久美子が好きだった。長蛇の列の握手会に何時間も並んでいた。当時はなかったが、レコードに「握手券」なるものが入っていたら、ビル掃除のバイトで稼いだカネを全部つぎ込んで、何十枚も「キラキラ星あげる」を買っていただろう。
だから、AKB48の“総選挙”でお気に入りメンバーをセンター位置に立たせるため、何十枚もCDを買い投票権を買うファンを、「キモいオタク」と冷笑する気にはなれない。なにしろこっちは「コメットさん」の追っかけですから。
一方で、いわゆる良識派とされる人たちが、AKBに冷淡なのも、分かる気がする。
「会いにいけるアイドル」として一部ファンが熱狂していただけだったAKBは、ある時期、一挙に臨界を超えて「国民的アイドル」になった。いまや週刊誌で彼女たちの写真が載っていない週を探す方が難しい。全テレビ局は言うに及ばず、朝日新聞まで“総選挙”の結果を詳報するようになっている。
こうなると、AKBに魅力があるから人気がある、というのではない。人気があるから人気がある。みなが話題にするから話題になる。本当に「すごい」からすごいのではなく、「みながすごいと言う」からすごくなる。すごさという事実は、みながすごいと言う事実の後からしか、現れてこない。
構図としてこれは、ロックやスポーツのスーパースターとか、超高級ファッションブランドとか、カリスマと呼ばれるような政治や宗教の指導者とか、もっといえば貨幣や言語とも同じだ。みながすごいというからすごい。みなが使用するから、通用する。
ヒトラーやムッソリーニが、なぜあのような絶大な権力者になれたのかを考えていくと、どうしても最後に謎が残る。
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