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 死んだと思っていた? 時々自分でも生きていることを忘れるんだ。まず痛いような冷たさがある。泡立つ液体が喉を落ちていくのを感じる。それからだ。やっと生きていることに気づく。小説? もう書いていない。『ゆっくり寝ろ、そして、たっぷりビールを飲め』の日々さ。

 飲みながら話をしていいかな。……ありがとう。

 これはビールと言わないか、発泡酒。そうか、あんたのいうとおり実はもう死んでいて生きているフリをしているだけかもしれない。死んだ男より可哀想なのは忘れられた男です。そう詩人は書いた。だけど俺は満足しているんだ。違う? 違わないよ。反吐が出そうなほど満足してるさ。その詩なら「可哀想な女です」だって? 細かいね新聞記者は。

 聞きたいのは〈彼〉の話だろう。ほかに誰がいる? 世界中の人が忘れちまったって俺は忘れない。過去に生きる男がどうして忘れる?……とんでもない、恨んじゃいないさ。人間は生まれつき不公平に作られている――ジョン・F・ケネディー。こんどは間違ってないだろ。人間は不公平だ。世界は不平等なんだ。

 そうだね、〈彼〉は不公平を認めなかった、みんな同じだと言った。強いやつは強いフリをしているだけなんだと。じゃあ、才能のあるやつは才能のあるフリをしているだけなのか。そうなんだろう。でも才能のあるフリができるってことは、才能があることとどこが違う? 

 ……もう一本空けるよ、発泡酒。

 今回は残念だった。〈彼〉、いつノーベル賞をとるの。ふうん、それは朝日新聞の見解かい、ずいぶん突き放した言い方だな。

 あんたは覚えてないのかい。〈彼〉が最初に女の子と抱き合ったのは「朝日新聞の日曜版の上」だったんだ。17歳だった。どこの街の、どんな繁みの上で寝たかは書いていないのに、朝日新聞日曜版は〈彼〉の指名を受けた。最初のセックスの、栄誉ある目撃者となった。

 もちろん、たいした象徴性があるわけじゃない。『ねじまき鳥クロニクル』で赤いビニール帽子の加納マルタが待っていた「品川パシフィックホテル」と同じ壺から出された、おさまりのいい固有名詞にすぎない。

 『海辺のカフカ』に出てくるジョニー・ウォーカーについて、〈彼〉は「単なるアイコン」だと言ったことがある。象徴性はないとね。だけどスーパーマンだと筋肉が多すぎ、ジャック・オ・ランタンだと知名度がなさすぎる。そんなふうにして、その新聞は赤旗日曜版ではなかったし、朝日新聞も本紙ではなかった。その固有名詞が選ばれたのは、ひとつの恩寵だった。それはバースデーの記念に連れていかれたレストランで、ステージに立ったマジシャンの手の中から突然現れたビーズ文字のカードみたいにキラキラしている。

 どんな仕掛けなのか〈彼〉のことばはことばを生む。ことばの連なりから、まるで自動的にもりあがってくるように新しいことばが出てくる。〈彼〉はいつも一番ふさわしいことばを、ことばの連なり自身に選ばせる。だから、いつでも、どの場所を取り上げても「ポップ」だ。段差や傷ができないよう、つるりとはまるべき場所にはまってる。

 ねえ、もう1本飲んでもいいかな。……ありがとう。

 分かるだろう? 俺は弾き出されたことばなんだよ、「ポップ」じゃないという理由で。俺は傷そのものさ。いや。押し出したのは〈彼〉じゃない。ことばの連なりさ。ヤツらがもぞもぞと動いて世界の外に押し出した。

 ポップが分からない? はっきり言ってね、それは、もう新聞がポップじゃないって言ってるようなものだ。

 ポップの国のルールはフェアでシンプルにできている。人気はあったほうがいい。そして、複製がオリジナルと同じだけの価値を持つ。60年代のキャンベルスープの缶、モンローの顔。80年代のマイケル・ジャクソンのヒット曲。90年代のデジタル音源もそう。アナログ音源よりもポップだ。

 まだダメかい?

 じゃあ、例え話をしよう。〈彼〉の物語はすべて例え話でできているといってもいいからね。

 ユニクロの服はポップだ。問題ない。だけどユニクロ+Jはノーだ。

 複製化され広がることによって、Jの本体、つまりジル・サンダーの価値が脅かされる。ユニクロがポップであり続けようとするなら、+Jは消滅する運命だった。

 〈彼〉の書くものはユニクロなきユニクロ+M。世界のどこでだってポップだ。買わないヤツは、はっきり言って、グローバルな意味でバカだ。

 悪いね。もう、1本空けさせてもらうよ。

 かつて発泡酒はポップだった。だけどもうポップじゃない。単なる安い酒だ。

 だいじょうぶ……反吐は吐かないよ。

 オーケー。別の例え話をしよう。すごいピッチャーの話だ。 ・・・ログインして読む
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筆者

鈴木繁

鈴木繁(すずき・しげる) 朝日新聞編集委員(文化)

1957年生まれ。1983年、朝日新聞社入社。1987年から学芸部員となり、家庭、文化、娯楽、読書面などを歴任。2004~07年、文化部長。「AERA」シニアライター、オピニオン編集グループ記者などを経て、2011年4月から編集委員。担当は読書と文化一般。著書に『時代はへらふにゃ三白眼――朝日新聞〈さんでーすぽっと〉Vintage’90-’87』(第三書館)、編著に『漫画鏡 平成コミックワールド探検』(河出書房新社)。共著に『会社のフシギ――肩こり女は今日もお仕事!』(朝日新聞社くらしスタイル班/編、中央公論社)。2016年11月、死去。

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