大澤聡(おおさわ・さとし) 批評家、近畿大学文芸学部講師(メディア史)
1978年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員を経て、現在、近畿大学文芸学部講師。専門はメディア史。出版産業やジャーナリズムの歴史的変遷を分析。デジタル時代の言論環境に関して提言をおこなう。文芸批評も手がける。著書に、『批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店)など。Twitterは、@sat_osawa
思えばこの10年、各種メディアの役割が問われ続けた。たとえば、相次ぐ雑誌の休刊について、その要因のひとつを「テレビの雑誌化」や「ネットの雑誌化」に見出す解釈が目についた。テレビやネットのコンテンツが雑誌に近い感性で作られる(典型的には、カタログ系サイトや情報バラエティ番組の氾濫)。むしろ、誌面の物理的限界を軽々と克服してしまう。そして、雑誌の代替として消費される。当然、雑誌の優先度は下がる。
しかし同時に、これを反転させた物言いもしばしば耳にした。「雑誌のテレビ化」「雑誌のネット化」への危惧。雑誌記事のネット配信事業の話ではない。雑誌媒体が「テレビ的」「ネット的」な趣向で制作される事態。これを意味している。ほかにも、「テレビのネット化」/「ネットのテレビ化」、あるいは「雑誌の新聞化」/「新聞の雑誌化」、「テレビの新聞化」/「新聞のテレビ化」など、この手の分析はいくらでも拾いあげることができる。
各種メディアが圏域を広げ、相互に乗り入れながら発展する。あるいは減衰していく。そのプロセスが指摘されるわけだ。「○○の××化」/「××の○○化」といった要約によって。「○○」「××」にはあらゆるメディアが代入可能だとさえいってもよい。もはや、この表現はテンプレートと化してしまった。ところが、そうした状況整理から予想図や対応策が導き出されることはほとんどない。進行中であるメディア環境の地殻変動にどう対応すべきか。これからのメディア社会の様態を具体的にデザインしていく作業は残り続ける。
さて、これに似たパターンはジャーナリズムの歴史のなかに多く観察できる。たとえば、
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