2011年12月08日
ドストエフスキーの『賭博者』、織田作之助や青山光二のバクチ小説をひもといてみるまでもなく、勝ちは偶然、負けるは必然。その必然的な負けの道に、ひとはなぜ敢えて踏み込むのか――その問いが文学の領域に触れるのかもしれない。負けの道は愚者の通り道であるばかりでなく、地獄へと堕ちる悪の道でもあるのに。
俗世にはびこるあまたの嗜癖、アディクションの中でも、ギャンブル中毒が一番タチが悪い。
薬物中毒やアルコール中毒は、家族や会社を巻き込んでもたかが知れている、本人の肉体が蝕まれるから、最悪でも、死んで止まる。けれど、ギャンブルはある速度を超えて走り出すと止まらない。いや、走っているんじゃないな。落ちている。回りのことなんか知らない。見えちゃいない。愛する者にウソをつき、自分を罵り、世界を呪いながら奈落に向かうスライダーには、支えるものがどこにもないのだ。
唯一のストッパーが資金の枯渇だ。タネが切れて、ハッとわれに帰る。滑り台を降り、カラスにアホーアホーと囃されながら自分の長い影をとぼとぼ踏んで日常生活への途をたどる。
その意味で、借金ができる環境というのは、ギャンブルフリークにとって本当にいけません。いつか、流れが変わるんじゃないかと、ありもしない輝ける未来を夢見、「一時的に預かるだけだから」とだれかに言い訳して、お金を手元にかき集める。中毒者の目には、こいつは金じゃない。張りコマだ。ギャンブルするチャンス。希望のかけら。けれども自分の都合に合わせて描かれた未来は100%到来しないから、さらに落ちる速度が上がるだけ。後は借金の高速回転だ。
そらもう面白いように落ちますな。おれに借金をさせてくれるな、とだれかに叫びつつ際限なく落ちる。脳髄がしびれ、気持ちいいか気持ちよくないか分からないような感じ。ただただ慣性の法則で落ちていく。
私も、ギャンブルはそんなに嫌いじゃないほうなので、この「止まらない感」は想像できる。いや、ちっちゃい落下なら、ままある。
なので、ギャンブルで破滅する人の身体感は、分かる。積極的に我が身に重ねたくなると言ったほうがいいかもしれない。
例えば
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