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マックス・オフュルス『歴史は女で作られる』の完全版公開を祝して

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 フランス映画史に屹立する、『歴史は女で作られる』(1955)の「完全復元版」が公開される。監督は、ドイツに生まれフランスに帰化しハリウッドでも活躍した名匠・マックス・オフュルスだが、この大傑作を見逃した映画ファンは一生悔いを残すだろう。ともかく、めちゃめちゃ凄い映画である(総天然色<イーストマン・カラー>、シネマスコープ、製作費8億フラン)。

 物語は、19世紀に実在した美貌の踊り子、ローラ・モンテス(マルティーヌ・キャロル)が、作曲家フランツ・リスト、バイエルン王ルードヴィヒ一世、ミュンヘンの大学生などと繰りひろげる恋の遍歴のお話。――しかし、こうした物語そのものは、この映画の凄さとはほとんど無関係だ。

 では『歴史は女で作られる』の、どこがそんなに凄いのか。

 まず何より、凝りに凝った装飾的なセットや、きらびやかな装いの人間たちで空間を埋めつくし、しかもそれを絵画のように静止させるのではなく、さまざまな方向に動きまわるカメラによって、ワイドスクリーンいっぱいに目のくらむような<運動>の渦として描き出す、オフュルスの突出した演出力に打ちのめされる。

 それが端的に表れているのは、巻頭から全編にわたって断続的に描かれる、アメリカの旧仏領ルイジアナ州ニューオーリンズのマンモス・サーカスのバロック的舞台空間だ。

 サファイア色に輝くシャンデリアや、いく重もの色とりどりの緞帳(どんちょう)が垂れ下がり、縄梯子が張り渡された舞台上で、シルクハットをかぶった団長ピーター・ユスチノフが鞭をふるい、数奇な人生をたどったローラ・モンテスについての口上を声のかぎりに喧伝すると、画面奥からたくさんのお付きに従われて、ローラが金ぴかの装身具で身を飾り、奇妙な円形ベッドのような台座の上に正座した恰好で登場する。文字どおり絢爛豪華な“活動絵巻”の幕開けだ。

 そしてカメラが、水平、垂直、斜めに滑走し、あるいは前進し後退し、さらに円を描いて、自分の波乱万丈の人生を見世物にして食いつないでいる零落の、しかしいまだ美貌の衰えぬヒロインを、いくつもの異形の装置がとり囲み、極彩色がぴちぴちとはじける毒々しい祝祭のど真ん中で晒(さら)し者にする――。

 この目もあやなカーニバル的な祝祭感が、変わらぬ強度でラストまで持続することも驚きだが、これはひとえに、オフュルスが空間造形だけでなく、<時間>描写においても、じつにユニークな工夫をこらしているからだ。

 すなわち、団長が狂言回しをつとめるマンモス・サーカスの舞台=現在(1850年代前半)は、断続的にローラをめぐる様々な過去の場面へとフラッシュバックし、彼女のスキャンダラスな恋愛模様や、バイエルン王の寵愛を受け、遂には革命さえ招来した彼女の運命が、次々と映像化されるのである。そして、このように映画が過去と現在を行き来するうち、観客はともすれば2つの時制の境界を見失ってしまうが、これも“オフュルス魔術”の効果のひとつだ。

 しかもオフュルスは、そうした<過去>の場面の多くで、<現在>のサーカスの舞台に劣らず耽美的なセットを精妙に作り込み、彼ならではの流麗な移動撮影でそれらを画面に写し込んでいく。したがって、この映画ではサーカスの舞台のみならず、サーカスの楽屋/舞台裏(バックステージ)を含むすべての場面が、ことごとく見世物の<舞台>と化すのである。

 つまり、前後左右高低とクレーンやパンでなめらかに(ただしアラン・レネや溝口健二の長回しよりは小刻みに)移動するカメラがうつす一切が、すべからく<舞台化/スペクタクル化>されるわけだ(この点にオフュルスが意識的だった証拠に、場面が2度目に過去へとフラッシュバックする直前に、サーカスの舞台に立った団長は「第2幕!」と叫ぶ。あるいはやはり、<過去>のエピソード中に、ローラがモデルとなってアルプスの高峰を描いた絵画を背景にポーズをとる、いわゆる活人画(タブロー・ヴィヴァン)のシーンがあるが、これまた、現実を<舞台空間化>することへのオフュルスの執着をうかがわせる、興味深いディテールだ。

 いやどんな映画でも、あらゆる場面は観客にとって舞台ではないか、などと言うなかれ。

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