2011年12月20日
共産主義国というものの重々しさがなくなったなあと思わされる訃報でした。
いつも11時半から正午はテレビ朝日のニュース系番組を見てるんだけど、この日は「橋下が大阪市長に就任初日」っていうんでその話題をやり始めたから見たくなく、NHKに回したんですね。で、正午のニュースになって何かトップニュースをやりかかったらあわてて「ただいま入りましたニュースです、北朝鮮の」と死去のニュースになった。
この軽さが悲しい。
画面はすぐ、朝鮮中央テレビの、朝鮮関係のニュースとなると必ず出てくるあのチョゴリのおばさんアナウンサーが死去を報じているところを映しだした。
この速さが悲しい。
共産主義国の最高指導者が死んだ時がこんなことでいいのか。
まず、朝鮮中央ラジオ(ってのがあるのどうか知らないが)が通常の放送を打ち切ってクラシック音楽を流し続ける、ところから始まるべきだろう。それを傍受(いや、ふつうの放送なのだが)して「朝鮮中央ラジオは通常の放送を中止してクラシック音楽を流し続けております!」といってそれがニュースになる。きっと最高指導者が死んだに決まってるんだが、発表があるまでそうは言わない。
ブレジネフの時もアンドロポフの時もそうだった。まず、ラジオでクラシック。なんともこう、伝統芸能とか茶道とかに通じるような、一種の「訃報儀式」が繰り広げられたものであった。
……と書いて、クラシック音楽が流れるのはあれはソ連だからだったかも。毛沢東が死んだ時はどうだったか思い出そうとしているが思い出せない。胡弓の中国音楽が流れたという記憶はない。しかし、やはり「中国で何かが起こった。たぶん毛沢東が死んだ以外考えられないが、口には出さない」という時間がしばらくあったと思う。
金正日はもういきなり「死んだ!」で死因まで発表されちゃって(ほんとかどうか確かめようもないのだが、それは日本だってアメリカだって要人の死因など家族ででもなければ確かなことはわからない)、共産主義国最高指導者が死んだとは思えない軽さだ。しかしそれはこちらが必要以上に「共産主義国は重々しくあってくれ」と希望してるだけなのかもしれない。
で、金正日というと私は『プルガサリ』を思い起こす。北朝鮮の映画だ。
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