聞き手:服部桂・朝日新聞ジャーナリスト学校シニア研究員
2011年12月24日
千葉麗子(ちば・れいこ) 1991年、アイドルとしてデビュー後「チバレイ」の愛称で人気を得る。1995年に引退、デジタル系会社の(株)チェリーベイブ代表取締役に。ゲーム・WEB・携帯コンテンツ・システム等のプロデュースや制作を行う。1999年、出産と育児を機にヨーガを始め、インド哲学やヨーガ教典も勉強、北インド・リシケーシでの修行滞在を重ね、現在は、インテグラル・ヨーガのインストラクターを務める。著書に『千葉麗子のモテ ヨーガ』(中経出版)、『白湯ダイエット――カラダの声に耳を澄ましてますか?』(祥伝社黄金文庫)など多数。
●DVから抜け出すために…
――今でこそパソコンをはじめとするデジタル機器が、生活の中でなくてはならないものになったけれども、千葉麗子が「電脳アイドル」として登場した頃は、まさにインターネットの黎明期。“次世代の代表”として脚光を浴びましたね。でもその後、20歳で引退してIT系会社の社長に転身。そして今はヨーガ・インストラクターとして活躍しつつ、脱原発を含めた「Twitter」での発言が話題になっています。そんな千葉麗子の「これまで」と「これから」を聞いていきたいと思います。そもそも、なぜタレントを目指したのですか。
千葉 生まれたのは大阪の天王寺ですが、父が出身の福島県福島市の職員に採用されて、5歳で福島に移りました。
両親は不仲で、その後別居、離婚をするんですが、私は小さなときから、父親からも母親からも暴力を受けて育ちました。それがやがてうつや摂食障害、PTSD(心的外傷後ストレス障害)といった問題に繋がっていくのですが、とにかく壮絶な家庭環境でした。
その後、ヨーガに出会って瞑想や内観をするようになり、自分を見つめ直したとき、自分はなぜアイドルになったのか、その深いところの理由が分かってきました。
幼少期に、例えば親に抱っこされたりとか、ごく普通に愛情をかけてもらっていれば、なっていなかったかもしれない。私には愛された記憶がありません。何か、人間としての欠如を抱えたまま、生きてきたような感じがします。妹はずっと喘息で、両親から殴られたり叩かれたりすることは一切ありませんでした。4歳の頃から、私だけずっと、あざだらけ、血だらけだったんです。
だから、テレビの中のアイドルたちがちやほやされているのを見て、私もこういう存在になったら、みんなから愛を受けられるんじゃないかと思ったし、DV(ドメスティック・バイオレンス)の環境から早く抜け出すには東京に出るしかないと思ったんですね。それで今の息子と同じくらいの年ですが12歳の頃からオーディション雑誌をチェックして、応募するようになりました。
――応募の手続きは全部自分でやったんですか?
千葉 写真を撮って、履歴書を書くのも全部自分で。東北ブロックの大会は仙台で行われるんですけど、何回も出場しました。東北大会に合格すると、今度は東京で全国大会がある。東北大会で落ちるときもあるし、受かって東京に行くときもあるし、結局、10回ぐらい挑戦したのかな。それで、「メディアクイーンコンテスト」という賞で審査員特別賞を受賞して、そこで事務所にスカウトされました。当時のマネジャーは、今も私の会社でマネジメントの一部を担当してくれています。
タレントになったときは、別に女優になりたいとか、誰々のようになりたいという目標はなかったように思います。とにかく、福島の家から逃げたかったんでしょうね。
――パソコンに目覚めたきっかけはなんですか?
千葉 ゲームが入り口ですね。とにかく両親のいる家にいたくなかったので、友達のところやゲームセンターが逃げ場になっていたんです。いま思うと申し訳ないんだけど、塾に行っている、とうそついて、夏期講習のお金を全部ゲームセンターに費やしたこともあった(笑)。鈴木裕さんがつくったセガの「アウトラン」が、アーケードゲーム(業務用ゲーム機)としてゲームセンターに入った時代に、それをやり込んでました。技は普通のゲーマーの域を超えていたんじゃないかと思いますよ。
それからもう一つ、上京して事務所に入ったとき、MacintoshのLCが事務所にあって、それを触りだしたのがきっかけです。1991年頃ですね。そのうち自宅にLC、LC2、LC3と揃えていきました。
――それが仕事に繋がっていったわけですね。
千葉 「週刊プレイボーイ」とか、「BOMB」といった雑誌でインタビューを受けるとき、当時のアイドルやタレントだったら、歌やお芝居とか、趣味のお菓子やお料理の話なんかをするのが普通じゃないですか。それが、私の場合はゲームの話しかできなかったんです(笑)。ゲームセンターにも通い詰めたし、当時発売されていたゲーム機をほとんど持っていたので。「ドラゴンクエスト」の裏技がどうだとか、そんなことをしゃべっていました。それからニフティサーブやアスキーネット、PC-VANなど、当時のパソコン通信の草の根BBSの話とか。自然にゲーム業界やパソコン業界の人脈も増えていって……。
そのうちに、メディアは肩書を付けるのが好きだから、「元祖電脳アイドル」とか「デジタルアイドル」「ネットアイドル」と呼ばれるようになって、あれよあれよという間に浸透していきました。
――1994年に朝日新聞でインターネットの特集を組むことになって、当時“マルチメディア”と呼んでいたのですが、それは一体どんなものなのかという記事を載せることになりました。その企画で、ユーザーの立場から話を聞かせてください、と千葉さんと伊藤穣一さんに対談をお願いしたんですよね。
千葉 はい。その頃、さかんにメディアに取りあげられて。デジタルが一般に広がる時期でしたね。フジテレビの深夜番組で、モーリー・ロバートソンといとうせいこうさんが、「レボリューションNo.8」という番組をやっていたのもこの頃でした。21世紀に向けて、どんどんデジタル社会になっていく、時代の転換点だったと思います。楽しかったし、充実していたし、あの頃が自分の人生にとって大きなターニングポイントになりましたね。
振り返ると、当時の私は生意気でした。CMの仕事も増えて、簡単にタレントを辞めるとは言えなくなっていたのだけど、もう頭の中は全部ネットのことしか考えていなかった。
●私の欲しい愛は芸能界にはなかった
――順風満帆だったのに、アイドルを突然やめましたね。それはなぜだったのですか。タレント業だけでなく、インターネット関連の、省庁の審議会や委員会などにも数多く出席したりして、活躍していたのに。
千葉 自然な流れなんです。周囲から、「早くこっちの(デジタル系の)世界においでよ」と言われていたし、アイドルじゃなくても自分の好きなことは発信できる時代になると思っていて、アイドルや芸能界というものが意味を持たなくなるのではないかと思ったところはあります。
やっぱり、いま自分を見つめ直して思うのは、当時芸能界に入ってはみたけど、私の欲しい愛はそこにはなかった、というのが大きいですね。あのころははっきりわからなかったけど、本当に欲しかったのは、ファンからの不特定多数の愛じゃなかったんだと気づいたんですよ。
――それから自分の会社「チェリーベイブ」を立ち上げますね。
千葉 ジョーイ(伊藤穣一氏)たちが、人間としての器が大きくなるから、会社という組織をつくってみたら、と助言してくれたんです。有限会社の最低資本金300万円からやればいいと。それならできると思ったんですね。結局、アイドル時代に貯めたお金が1000万円無かったので、有限会社にしたんですけど。社長になりたいというよりは、自分自身の成長のために会社というものを作ってみたかった。その後、増資して株式会社にしました。
立ち上げた当初は、慶応大学・湘南藤沢キャンパスの村井純先生がやっていた、「デジタル原宿プロジェクト」に参加していました。森ビルと組んで、ファッションショーを企画して当時のストリーミングで配信するとか。そうしたプランニングやプロデュースからスタートしました。その後はウェブの制作が中心ですね。もうひたすらウェブを作って、作って、作って納品して――という日々でした。
時代の変化は激しくて、その後は携帯のサイトも手がけ、ゲーム、美容、ビューティーと広がっていきました。
――私生活の大きな変化では、1999年、20世紀の最後に結婚しましたね。それから、お父さんをがんで亡くして……。
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