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全豪テニス8強入りした錦織圭よ、国を背負うな! 

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 自身初となるグランドスラム8強(全豪オープン)入りを果たした錦織圭(22歳、2012年1月30日現在、世界第20位)。ご存じ、日本テニス界のエースだが、日本男子の4大大会でのベスト8進出は、なんと80年ぶり。

 これはむろん快挙だ。しかし、今回の錦織の大活躍はまた、日本男子のプロテニスがいかに長ーいあいだ低迷していたかを浮き彫りにしたわけで、テニス関係者は浮かれてばかりはいられまい。また、プロスポーツでの世界20位代はそんなに凄くはない、と意地悪く言う人もいるだろう。

錦織圭選手

 が、いっぱしのテニス観戦マニアであり、草テニスプレイヤーでもあるワタクシは、やっぱり今回の錦織の活躍にはコーフンした。仕事なんかサボりまくってTVにかぶりついていた(どうでもいいけど、ワタクシは東京・東久留米市のセサミ・テニススクールの生徒で、かつてフューチャー・シングルス準優勝という快挙<?>を果たした←レベルは追及しないでください)。

 さて、錦織のいちばんの長所は、相手がチャンスボール(甘い球)を打つまで、辛抱強く冷静にラリーを続ける粘りと、相手の意表をつく瞬間的な想像力の豊かさだ。え、テニスに想像力だって? と首をかしげる人もいるだろうが、つまり、こういうことだ。

 ――テニスの試合はあるレベル以上になると、ラリーの打ち合いや、速いサーブだけでは決着がつきにくい。そこで、リスクを恐れず、ベースラインぎりぎりの深い(あるいは横に相手を走らせる鋭角的な)アプローチショットを打ち、ネットに出てボレーを決めるか、ネットをすれすれに越すゆるい球(ドロップショット)や、相手の逆をつく返球やサーブを打つかして、相手のバランスを崩さねばならない。

 そしてその際、打球のコース、回転、強弱のいくつもの選択肢の中から、「この球を打とう」と瞬時に決めるのが、<テニス的想像力>、つまりアイデアの瞬間的なひらめきなのだ。まあ、これが出来るには、生まれつきの突出した身体能力、アタマの良さ(型にはまらない発想力など)と、それプラス、日々の何時間もの過酷な練習、ランニング、筋トレ、メンタル・トレーニングなどが前提となるのだから、安易に“わが子も錦織のように”、なんて考えるのは妄想です。

 残酷なことだが、プロスポーツの世界では、天賦の才能と強運がなければ、いくら努力してもトップクラスには行けない。「自分らしさ」だの「オンリーワン」だのと世迷言を言っていたら、即、脱落してしまう。そこでは、自分の価値を決めるのは自分ではなく、「他者=排除と選別のシステム」なのだ。

 しかもトップに行けるのは、ほんの一握りの選手である。つまりその世界では、<優勝劣敗>の法則がすべてなのだ。そして、彼らの試合を観戦するわれわれ凡人は、彼らの驚異的なプレーから「勇気」や「元気」をもらうことなど絶対に「ない」。ただおカネを払って、彼らのプレーを娯楽や気晴らしとして見て、あるいは彼らの誰かを応援して、コ―フンするのみだ(それはそれで実に楽しいことだが)。

 さて、錦織のアタマの良さ、冷静さ、気負いのなさは、たとえば世界第6位のツォンガ(仏)との4回戦で、相手のバック側を執拗に攻め、相手の最強の武器であるフォアハンドを封じ、彼のミスを誘った作戦にも、はっきりと表れていた。それで言えば、シロウト受けする、あの大きくジャンプしての“エアケイ”打法を多用しなかったのも、対ツォンガ戦の勝因のひとつだろう。

 もっとも、錦織が完敗した準々決勝の相手、世界第4位のアンディ・マレー(英)は、錦織とよく似たプレースタイルで、さらにパワーもスタミナも戦術も彼を大きく上回っていた。世界のトップ・プレイヤーの凄さを見せつけられた一戦だった(残念)。

 また、修行時代の錦織は聡明にも、元プロテニス選手の“カンチガイ熱血タレント”松岡修造とはまともに付き合わなかった。ジュニア時代の錦織の練習相手をしながら、「おい圭、ふて腐れた顔をしたら練習は中止だ!」などと喚いたり、昨年錦織が世界第1位のジョコビッチを破った時にも、「なんでもっと派手にガッツポーズしないんだよ!?」とアホなことを言ったりした松岡修造、彼は憎めないキャラだけど、日本テニスにとってホントに困った存在だ(錦織は彼独特のニュートラルな態度で、松岡の“熱血サポート”を控え目にはぐらかしていたが、内心では無意味にハイテンションな松岡にうんざりしていたに違いない)。

 「顔」とか「表情」とか、そんなものはスポーツにとって全くどうでもいいものだ(いや、シャラポワが××とかそういう話は別ですよ)。むろん「強い精神力」は勝つための絶対条件だが、それはプレー中の「顔」や「ガッツポーズ」などには表れっこない。そんなことはサルにだって分かるはずだ。

 もっとも、「顔」や「ガッツポーズ」でファイトを表すことを称賛するのは、松岡修造だけでなく、TVメディア一般の傾向でもある。つまりそれは、テニスのTV中継の撮影技術がなまじ発達したために、やたらと選手の顔を大写しにするカメラや、「顔に気迫があふれてますねえ」などと繰り返すアナウンサーのトンマなお喋りにみられる、悪しき「心理主義」なのだ(とくに不要なのが、選手の顔をスローモーションでとらえるショットだ。あんなものを撮るくらいなら、女子選手の×××でも撮ってくれ、なんて言うとヤバいですが)。いうまでもなく、スポーツ中継で肝心なのは、選手の身体の動きを「引き」のカメラで撮りおさえることだ(これは劇映画の撮り方にも言えること)。

 スタンドから観戦するテニスの試合が、TV中継よりずっとスリリングなのも、この点に関わっている。つまり、競技場でテニスの試合をじかに観戦すると、選手の表情などはほとんど見えないし、またそれに関心も向かわない。観客はもっぱら、前後左右に走りながらボールを打つ選手たちの身体の運動に目を奪われ、実際に打たれるボールのスピードが、TVで見る印象より何倍も速いことをリアルに体感するのだ。その臨場感はハンパではない。

 ところで、錦織はクルム伊達と組んでの混合ダブルスには出るべきではなかった。

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