大澤聡
2012年02月01日
たしかに、そうした現象はいたる場面で指摘することができる。だが現在に限ったことではない。歴史からいくらでも発掘される。とりわけメディアの再編期に。そこで本連載では、1930年代前半の言論状況(わたしの専門対象でもある)を題材に、その議論のパターンを析出・検証してきた。
さて今回は、再び近年の議論に目をむけてみたい。一例として、小林弘人『新世紀メディア論――新聞・雑誌が死ぬ前に』(バジリコ、2009年)を取りあげる。前回予告したとおり、上述の流れと少なからず関係する箇所も含んでいる。たとえば次のようなくだり。
「新聞は限りなく『雑誌』的なるものに、雑誌は『新聞』的なるものへと、ますます近接していくかと思われます」
雑誌と新聞は更新頻度やインターフェイスにおいて異なるが、反対にいえば、その程度しか相違点がないところまで近づく。そう予想する。根拠は同書の主張にかかわる。紹介もかねて、文脈を補足しながら整理してみよう。
いまや、あらゆる業種の組織は「メディア化」せざるをえない。情報発信の技術的な諸コストが下がったことで、自前のメディアを介したプレゼンスの露出が前提となったからだ。メディアを扱うのはテレビ局や新聞社、出版社に局限されない。意志さえあれば誰もがメディアを保有しうる(それを同書は「誰でもメディア」状況と呼ぶ)。
そのとき、紙かウェブかを区別することにはさほど意味がない。それぞれに効果が見込めるかぎり、両者を総合的に利用することになるだろう。とりわけ参入障壁の低いウェブの場合、あらゆる情報が並列化される。それゆえ、どういったジャンルの企業により運営されるメディアであるかは副次的な事項でしかない。情報発信という一点において、あらゆる業種の企業が等しく競合関係に組み込まれる。消費者の有限のアテンションをめぐり争奪戦が展開される。
この競争において鍵となるのが
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