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『ヒューゴの不思議な発明』をより深く味わうために――(下)名誉を回復したメリエス

古賀太 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)

 『ヒューゴの不思議な発明』(マーティン・スコセッシ監督)の冒頭で、メリエスがモンパルナス駅でおもちゃを売っている姿が映る。実際に、メリエスは1925年にその場所でおもちゃ屋を始めている。

 メリエスの最盛期は、1908年くらいまでだろう。1898年頃から10年近くは、メリエスは確実に世界で最も人気のある映画を作っていた。1910年には映画の自社製作を中止し、次第に忘れ去られてゆく。『ヒューゴ』で彼が倒産して、フィルムやセットを焼くのは本当の話だ。

拡大来日し、”一夜限りの白熱教室”で学生約150人と対面したスコセッシ監督=パラマウント・ジャパン提供

 それではなぜメリエスの映画は廃れたのだろうか。第一に、メリエスの映画はあくまで個人映画だった。彼が演出をし、主役を務めた。それどころかトリックやセットも自ら考案した。リュミエール兄弟もエジソンも最初期を除いて自らカメラは回さなかったし、もちろん主役は演じていない。

 その後メリエスを追いかけたフランスのパテやゴーモン(両方とも現在も存在する)は会社組織にして監督や俳優を雇い、作品を量産した。新しい娯楽としての映画の人気は高まる一方だったが、メリエスはあくまで自分のペースで映画を作るしかなかった。

 第二に、映画の主流がアクションに変わったことだ。1902年の最初の西部劇『大列車強盗』(最後の銃を撃つ男が『ヒューゴ』の図書館のシーンで映る)の成功以来、アメリカ映画は同時並行のアクションによるサスペンス構造の映画を作り始めた。それは1908年以降、グリフィスによってクロース・アップなどの技術と共にアメリカ映画の基本となってゆく。

 メリエスの繊細な手作りのセットによる映画は最初は珍重されたが、舞台を基礎にして正面を向いて演じる物語は、平板なものとして次第に飽きられてしまう。メリエスの映画はすべてハッピーエンドで、強盗も人殺しもなかった。『ヒューゴ』では、ハロルド・ロイドの喜劇やチャップリンの『キッド』、ルイズ・ブルックスの『パンドラの箱』、ドイツ表現主義の『カリガリ博士』や映画の父グリフィスの『イントレランス』など、メリエスの後に現れた無声映画の名作も少しずつ見られる。

 当時のフランスに、映画の著作権が存在しなかったことも大きかった。メリエスは映画を作るとプリントを何本か現像して、国内の興行師たちに販売した。ずる賢い興行師はそれから海賊版コピーを作り、世界各地に販売している。当時多くのメリエスの映画が日本でも上映されたが、すべて海賊版であった。『月世界旅行』は日本を含む世界中で上映されたが、メリエスにはほとんどその収入が入らなかったことになる。

 そのことを知ったメリエスはニュー・ヨークに兄を送ったり、バルセロナやロンドンの友人に代理人を頼んだりするが、時すでに遅かった。メリエスの作品は世界中で上映されながらも、彼には財産が残らなかった。さらに国内では、パテやゴーモンが『月世界旅行』などメリエスの人気作を次々に模倣し、似たような作品を何本も作った。

 メリエスはおもちゃ屋を始める前に、1923年に自分の全財産を処分し、撮影所があったモントルイユの土地も売り払っている。『ヒューゴ』で出てくるようにフィルムもすべて焼き払っているので、彼を讃えようにも、作品がどこにもなかった。

 そんな時、ある金持ちの城から数十本の作品が出てきた。 ・・・ログインして読む
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筆者

古賀太

古賀太(こが・ふとし) 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)

1961年生まれ。国際交流基金勤務後、朝日新聞社の文化事業部企画委員や文化部記者を経て、2009年より日本大学芸術学部映画学科教授。専門は映画史と映画ビジネス。訳書に『魔術師メリエス――映画の世紀を開いたわが祖父の生涯』(マドレーヌ・マルテット=メリエス著、フィルムアート社)、共著に『日本映画史叢書15 日本映画の誕生』(岩本憲児編、森話社)など。個人ブログ「そして、人生も映画も続く」をほぼ毎日更新中。http://images2.cocolog-nifty.com/

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