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『カーネーション』の脚本家、渡辺あやが気の毒だ

青木るえか エッセイスト

 もう『カーネーション』のことは考え尽くした、すべて結論は出た、もう『カーネーション』のことなんか考えない、と思ったけどなんだかんだと出てくるもんですね。

『カーネーション』から。小原糸子(夏木マリ=左)と孫の里香(小島藤子)

 夏木マリには驚いた。この人の、女優としての資質についてよく知らないでいたのだが、なんとなく「オシャレなイメージは堅持」の人で、なおかつ「さばけたところもある」という、まさに『カーネーション』にぴったりのキャスティング、と感心(=ゲンナリ)していたので、夏木マリ登場からこんなふうに「カーネーション世界」がガラリと変貌するとは思いもよりませんでした!

 いきなり下世話!

 ストーリーにもセットにも照明にも演技にも深みまったくナシ!

 すげえ。

 なんで残り一ヶ月でこんなふうに変えるんだ? という疑問についての正解なんか「ない」と思われるので(人は信じたいものしか信じない)、別のことを考えた。伊丹十三問題についてだ。

 伊丹十三問題というのは「伊丹十三はどうして自分の監督作品の主演に宮本信子を使うのか」という問題で、仮に「伊丹十三問題」と言っているけれど「武豊関係の文章は島田明宏が一手に引き受けて書いてる」(最初にあげる例としちゃ少々しょぼい)とか北野武監督作品の主演はいつもビートたけしとか、『SIGHT』でいつも藤原帰一と北野武がロングインタビューされてる(聞き手も渋谷陽一に固定)とか、そういう決まり切ったキャスティング問題のことだ。

 それが「これしかない」と私に思わせてくれればいいが、何かこう「身贔屓」というか「思考停止」というか、「いっぺんはずしてみりゃいいのに」などといった感情が湧く。まあ「内容がいいから」という判断で使うんだろうけど。『SIGHT』で、勝谷誠彦が音楽の連載をしてたことがあって、『SIGHT』に勝谷ってすごく「野合」っぽくお似合いな感があり、このまま勝谷が『SIGHT』に居着くのかなーイヤだなーと思っていたら、その連載のあまりの面白くなさに、あっという間に消えてしまった。

 さすがにアレでは使い続けられなかっただろう(勝谷誠彦の、食べ物や音楽などのことを書いた文章の、読み進められないぐらいのつまらなさというのは、一読に値するすごさである)。それにくらべりゃ、藤原帰一や北野武やビートたけしは使い続ける意味はある。宮本信子は『お葬式』では主演の意味あったと思うけどその後の起用には疑問が。

 しかし、使う意味があったとしても、続くということに何か思うところはないのか。意味よりも、「オレはこの人のファンなの・ずっと一緒に仕事するのが嬉しいワケ」みたいでみっともないじゃないか(みたいで、と書いたけど、たぶんほんとにソレが正しいと私は思っている)。

 私が伊丹十三や北野武や渋谷陽一であったら「コレぜったい続きすぎって言われるよな-、ちょっとはずしとこ」と思うだろうに、私ではない伊丹や北野や渋谷には迷いすら感じられない、その臆面のなさ(実際は迷ってるのかもしれないが……いやそうじゃないな、やっぱり)。ヤダねー。

 ……と、思っていたわけです、が。

 夏木マリの『カーネーション』を見ていたら考えが変わった。

 といいますのも、

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