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【論壇女子部が行く!(2)】 千葉雅也(上)――自分が楽しいということを譲らない

聞き手=論壇女子部

●犠牲にされるな、ナルシシズムを徹底せよ!

――千葉さん自身、日常の中で何かに関わる、関わらないという、その線引きの基準はどこにあるんでしょうか。

千葉 まずもって自分が楽しいということ、それを譲らないのが一番です。この基準はすごく大事だと思う。実際、何か譲歩したり、犠牲にならなきゃいけないことが出てきたら僕はできるだけ引きますし、犠牲になりたくないという思いがいつもあります。これはワガママじゃない。断固として、ほかの人にも犠牲にされるなと言いたいですね。事情の難しさはそれぞれとしても、犠牲にされない工夫をする。知性はそのためにあります。

 自分のナルシシズムのようなものを大事にすることです。でも、それはすごく難しいんですよ。「あの人はナルシスティックだ」と言うとバカにしているみたいだけど、いやいや、中途半端なナルシシズムならたやすいかもしれませんが、断固としてナルシシズムを徹底するというのはきわめて難しいことなんです。そのためには、何らかの技術が要る。

 逆に、自分を愛することができなくて「他者のため」という正義みたいな感じに巻き込まれ、まるで訳が分からなくなっていく人のほうがよほど多い。しかしこの点、強度の高いナルシシズムを持っている人は冷静な判断ができると思っています。僕自身それを達成できているかどうかはともかく、少なくともいつも心がけてはいることです。

 確か、フロイトがナルシシズムについて書いた文章の中で、ナルシシズムの高い人間がある種の魅力を発揮してカリスマ的になるということを分析していて、動物というのはそういうナルシスティックな存在なんじゃないかと書いている。つまり動物は、過剰なしかたで他者に依存しておらず、それ自体で生が充実しているということでしょう。

 ドゥルーズだったら、このことをセルフエンジョイメント(自己享楽)と言います。そういう存在は、周りから見てちょっといいなと思えるんですよ。なぜかというと、そこに「切断」があるからです。集団的なパラノイアから自由だということ。猫なら猫だけで隔絶した生のなかにいる。僕は猫が好きなんですよ。猫って、人間を構ってくれなかったり構ってくれたりするでしょう。猫は多孔的ですね。セルフエンジョイメントに内在的であって、切断されている。言い換えると、小さくシャープな「個体性」をうまく維持して、大きな犠牲に巻き込まれないようにする、そういうスタンスを僕はドゥルーズ哲学から学びました。これは一つの存在論であると同時に、美学的な問題でもありますね。

●ヤンキーではなく、ポストヤンキー

――美学的な問題」という言葉からつなげていいのか分からないですけど、今日のファッションのポイントは(笑)。

千葉 それはかなり違う話ですけど(笑)、まあ思いはいろいろですが、一言で言うと「ポストヤンキー」でしょうか。そんなまじめに語ることではないけど(笑)、ツッパリのヤンキー以後、ギャル/ギャル男は、渋カジとチーマーを経ての西海岸風のテイストへ移ったわけです。けれど、その中にも、旧ヤンキー的な和物のアイテムとかイメージも混ざっていて、それのギャル文化とのハイブリッドをおもしろく思ってるんです。

 だからというわけでもないんだけど、僕も先日、ギャル文脈のブランドで和柄っぽいものを買ったので、

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