メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

私の書棚から見た吉本隆明

鷲尾賢也

鷲尾賢也 鷲尾賢也(評論家)

 1960年代に学生生活をおくっていたものにとって、吉本隆明は特別な存在だった。ほとんどが吉本主義者だったといっていい。もちろん、思想からではない。生き方である。

 当時、「就職転向」という言葉があった。企業に入れば、自由が束縛される。ものもいえない。そんな思い(覚悟)で入社したものである。しかし、そのなか(在野、市井)で頑張る、いわば『自立の思想的拠点』(徳間書店)をそのまま実行しているイメージがあった。『擬制の終焉』(現代思潮社)、『最後の親鸞』(春秋社)、『源実朝』(筑摩書房)、『初源への言葉』(青土社)、そして『言語にとって美とはなにか』(勁草書房)がいまだに書棚に並んでいる。

1968年当時の吉本隆明さん

 さすがに処分してしまったが、彼の個人誌「試行」もずいぶん長い間講読していた。埃をはたいて、開いてみると、傍線などを引いて読んだ痕跡がある。かたわらに、「吉本隆明全著作集」「全著作集(続)」(勁草書房、<続>は完結しなかったのではなかったか)も置かれているから、やはり熱心な読者だったのだろう。しかし、『共同幻想論』(河出書房新社)には歯がたたなかったことを覚えている。

 いろいろな噂が流れていた。これは本人とは、まったく関係ないはなしだが、そこに、当時の吉本の位置があった。

 いわく、

・・・ログインして読む
(残り:約1130文字/本文:約1668文字)