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【論壇女子部が行く!(2)】 千葉雅也(中)―― 技術と思想は一体でなければいけない

聞き手=論壇女子部

●手仕事が好き

――以前、千葉さんが「建築家よりも大工がいい」とTwitterでつぶやいていらしたのが印象に残っています。今はアーキテクチャというか、まずフレームを新たに設計することが必要だ、というところに多くの議論が収束しがちだと思うので、それに対するアンチテーゼなのかなと思ったんですが。

千葉 あれは「萌え」で言っているせりふで、僕はたんに、建築家よりも大工のほうが好みなんです(笑)。ここにも鳶衣料ブランドの寅壱の手ぬぐいがありますけど、職人フェチなんですね(笑)。でも、おっしゃっていただいたことはその通りで、アーキテクチャという言葉がもてはやされることへのアンチの気持ちがあって、それと自分の萌えを絡めてみたわけです。

 やっぱり僕は手仕事が好きなんです。文章を書くときにも、初めにもちろんグランドプランは考えるけど、現場で細かく手を動かしていると思いつくことがいろいろあって、ボトムアップで構成を変えていきます。物作りってそういう「手業」によって左右されることが大きいと思う。手業から出てくる「個体性」から出発して考えたい、いつもそう思ってるんですね。ほかの人の文章も、その人の手業がすごく気になります。

 大きく「アーキテクチャ」なんて言うと、結局は「管理職になりたい」みたいに聞こえちゃうんだよなあ。まあ、それはそれで一つのスタンスだけど、僕としては、グランドプランを考えながら、同時に一人の大工としてグランドプランの細部に位置しているというような、外から見ながらも内にもいるみたいなパラドックスを自分に課していたいんですよ。大工仕事って英語で「カーペントリー」と言うんですが、アーキテクチャの思想からカーペントリーの思想へ、という主張をしたいところですね。

拡大千葉雅也(ちば・まさや) 哲学者/批評家。1978年生まれ。東京大学教養学部超域文化科学科・表象文化論分科卒業後、パリ第10大学大学院哲学科などを経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)から博士号(学術)取得。ジル・ドゥルーズなどのフランス現代哲学、美術・文学・音楽・ファッションの表象文化論、セクシュアリティの問題などを研究。慶應義塾大学非常勤講師。2012年秋ごろ、初の単著となる『ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(仮題)を発表予定。撮影=佐藤類

 だから、これはよくTwitterでつぶやいているんですが、論文を書くときの具体的な技術にすごくこだわりがあるんです。最終的にいかに組み版が美しく見えるかということも考えて文章を書いています。京極夏彦さんみたいなものですね(笑)。

 これは本当に技術というかアートの問題なんです。だから僕は、技術はなくても思想はあるというのではダメで、技術と思想は一体でなければいけないと思っています。そのためには、地道に手を動かす、書く練習をするしかない。僕も高校生の頃から書いて書いて書きまくってきました。

 あと僕は、レトリック(修辞)が大事だという言い方もします。レトリックというと人をごまかす手段のように思われがちで、本質的な論理はレトリックに左右されるものではないと思う人もいるでしょうけど、そんなのは言語を使っている以上おかしい。言葉は必ず形を伴うわけです。ある空気の響きになって、ある文字の配列になって表れるわけですから、どう表すかというレトリックの次元を抜きには考えられないと思うんですね。そういう意味では、大工というのは現場のレトリシャンですよ。

――もともと千葉さんご自身は美術家になりたくて、でもだんだん論じるほうが楽しくなってきて、哲学を専門にされたと以前おっしゃっていたんですけれども、技術と思想が一体じゃないとダメだという思考も、そこに関係がありますか?

千葉 そうですね。僕はもともと写真を使ったオブジェやインスタレーションといった現代美術の作品を作っていたんですが、そこから美術批評をするようになって、批評それ自体の条件について考えるようになり、そのために哲学をやらざるを得なくなった……という流れで来てるんですね。

 だから、哲学や批評をするときも、実際に作るための指針になることを考えたいと思っているし、何々について語るというメタな立場と、手を動かして作っている立場との関係を、いつも気にしているわけです。僕にとって哲学というのは、完全に「実学」なんですよ。抽象的な議論っていうのは鋭利なツールであって、机上の空論なんかじゃない。自分の実存と絡めて哲学をやってみれば、誰でも気づくことなんです。

●「ゼロ年代」の文体なき文体

――その作ることとメタな語りの関係ですと、今の批評やアートのシーンを見てどう思われていますか。

千葉 現状を見ていて手仕事がないがしろにされているとは全然思っていません。皆さん活躍されている方には、いろいろな技術の違いがあって面白い。そのことをもっと語っていいと思うんですよ。

 たとえば濱野智史さんは、本当にリーダブルな(読みやすい)文章を書くけど、それはすごい技術だと思います。旧来の批評の味わいはないけれど、現代の文章としてああいうものはなかなか書けたものじゃないですから。だから『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』(NTT出版)なんて、内容だけ分かればそれで良さそうに見えるかもしれませんが、それでは読みが浅いですね。僕は、あの本の文体それ自体に対する表象文化論も可能だと思うほどですね。

拡大撮影=佐藤類

 それは、東浩紀さんの仕事にはもっと言えることです。彼はゼロ年代批評の文脈で文体的なこだわりを捨てて、フラットな文章こそを良しとする基準を若い人に普及させたところがある。でも実は、東さんの文章にはかなり独特の文体があるんです。独特の息の短さと、高い透明度というかトーナリティー(調性)がある。そのこともたぶんあまり言われていなくて、だから僕がそのうち東さんのことを書くとしたら、文体について、つまり一種の「文体なき文体」の個性について語る必要があるんじゃないかと思ったりもします。

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