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クロード・シャブロルの遺作『刑事ベラミー』公開によせて(上)――奇形的ミステリーの魅惑

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 1950年代末から60年代にかけてフランス映画界を席巻したヌーヴェル・ヴァーグ(以下NV)。いうまでもなく、少人数スタッフによる低予算早撮り、即興演出、スターではない素人役者の起用、「文芸名画」の伝統との決別、みずみずしい街頭ロケ、同時録音、「作家主義」……などなどによって、映画史を画した“新しい波”であった(「作家主義」とは、<演出>によって監督/作家の個性<作家性>が具現された作品こそ優れた映画である、という主張)。

 そして、ゴダール、トリュフォーらと共にNVの代表選手として名をはせたのが、惜しくも2010年に他界したクロード・シャブロルだ(彼らはみな、伝統的な撮影所/映画制作会社での助監督経験のないアマチュアであり、シネマテークなどで過去の映画を浴びるように見まくり、「カイエ・デュ・シネマ」誌に映画批評を精力的に書いていた映画狂青年だった)。

 NV出身者中、シャブロルがユニークなのは、3作目の『二重の鍵』(1959)以降、一貫して犯罪映画を撮りつづけたことだ。

 ハリウッド古典期のスリラー映画の2大巨匠、ヒッチコックとフリッツ・ラングに傾倒し、また推理小説の大ファンだったシャブロルが、大なり小なりNV風味をまぶしたミステリー映画を量産するにいたったのは、当然といえば当然だが、このあたりの事情については現在準備中の単著『クロード・シャブロル論(仮題)』で詳述する予定なので、ここでは、近日公開される彼の遺作『刑事ベラミー』(2009、傑作!)をとりあげたい(この作品はシャブロルの敬愛する二人のジョルジュ、すなわち歌手のブラッサンスと推理作家のシムノンに捧げられているが、映画の内容とも深く関わる彼らについては、順を追って触れる)。

 シャブロルの犯罪映画では、大まかに言って、謎解きや犯人探しには大きなウェイトがおかれず、殺人などの直接描写もさほど多くはない。シャブロルはしばしば、犯人が誰かを観客にあっさりと知らせてしまう。警察の存在はおおむね影が薄い。そして、犯罪者の犯行動機は最後まで曖昧なままである。

 では、シャブロルは犯罪映画によって何を描こうとするのか、といえば、それは何より、事件をとおして浮かびあがる、犯罪者のねじくれた心理や不可解な言動(外見とは裏腹な性癖など)である。そしてまた、彼らの属する階層的特徴(たとえばブルジョワの退廃や偽善)や、彼らの犯罪によって周囲に波及する不穏な空気であり、さらに事件の舞台となる場所(しばしば地方都市)の気候風土や風習などだ。

 要するにシャブロル犯罪映画の大半は、かならずしもサスペンスを前面に出さない、イレギュラーなミステリーなのだ。というかむしろ、シャブロル・ミステリーのイレギュラーさは、一見平穏な日常と得体のしれぬ犯罪の恐怖とが、いわば薄皮一枚でへだてられているような状況から生まれるサスペンスにあるのだ。

 ジョルジュ・シムノンの造形したメグレ警視を想わせる巨漢ジェラール・ドパルデューふんする警視ベラミーが、南仏セートの自宅で休暇中に起きた奇々怪々な事件に関わる『刑事ベラミー』でも、事情は変わらない。

 この映画もまた、犯罪捜査官の名推理によって難事件が解決し、すっきりしたカタルシスを観客にもたらす典型的な「刑事・探偵映画(ディテクティブ・フィルム)」とは、まったく趣を異にする(シャブロル自身、純粋な謎解きミステリーは撮りたくない、と発言している。ただし、秀作『刑事キャレラ 血の絆』<1977>は腕利き刑事が活躍する、シャブロルとしては例外的な本格ミステリー)。

 なおシャブロルには、演出上の計算ミス、ないしは演出放棄が生んだとしか思えない失敗作も少なくない(『ボヴァリー夫人』、『主婦マリーのしたこと』、『愛の地獄』、『ベティー』<シムノン原作だが、あまりにもドラマにメリハリのない平板な作品>など。

 さて、じつに要約しにくい『刑事ベラミー』の物語を、私なりの解読をまじえて「不完全に」要約してみよう(以下ネタバレあり)――:ベラミー警視と妻のフランソワーズ(マリー・ビュネル)のもとに、見知らぬ男(ジャック・ガンブラン)が訪れ、名前も告げず携帯電話の番号だけを伝えて帰る。数日後、男は電話でノエル・ジャンティと名乗り、ベラミーをモーテルに呼び出し、彼に一枚の写真を見せ、写真の男を殺したと言う。が、写真の男はジャンティによく似ていた(ここでの彼の言動の理由は、最後まで不明<←ここポイント>)。

 まもなく、ジャンティのデータは警察にはなく、彼の身分証は偽造されたものであることが判明(刑事映画でしばしば描かれる、鑑識による彼の身元確認の過程はいっさい省略される)。男は、保険金詐欺と殺人の容疑で捜索中の、保険会社の元社員エミール・ルレで、顔を整形し、ノエル・ジャンティの偽名を使って潜伏していたのだった。

 ベラミーの推理によれば、ルレはホームレスを自分の身代わりに仕立てて車を運転させ、崖から突き落とし事故死を装い、保険金の詐取を図ったのだ。がしかし、ベラミーが行動を起こす前に、ルレは警察に出頭し、逮捕される(彼の出頭の理由は、最後まで不明<←ここもポイント>)。

 さらに意外なことに、ルレはホームレスを殺していない、「僕は“いい奴”だ」(なんたるセリフ!)などと唐突に言いだし、身の潔白を法廷で証明することになり、ベラミーもルレに加担する(!)。ルレは、ホームレスが望んでいた自殺に図らずも手を貸したのであり、それは自殺ほう助ではなく“協力関係”だった、と主張する――。

 こうした人を食ったシャブロル的な展開は、これまた見るからに変人っぽい新米弁護士(ロドルフ・ポリー)が、なんたることかブラッサンスの「気のいい頓馬」を法廷で歌い、ルレの無罪放免をあっけなく勝ちとる頓狂な場面でピークを迎える(法廷で登場人物が歌いだす傑作といえば、グラマー女優ジェーン・ラッセルが髪をブロンドに染めてマリリン・モンローに変装し、お色気たっぷりに腰を振って歌い裁判長らを骨抜きにするハワード・ホークス『紳士は金髪がお好き』(1953)や、タイトルロールの判事ウィル・ロジャースが南軍軍歌を陽気に歌う、ジョン・フォード『プリースト判事』(1934)などが思い浮かぶ)。

 弁護士に歌わせるという“奇策”は、じつはベラミーの作戦だったのだが、それがごく控えめに示されるところも小粋だ。――以上が本作の物語の「不完全な」要約と解読。

 ともあれこうして、「←」とともに「ポイント」として前記した、いくつかのルレの言動についての「なぜ=動機」を不明にしたまま、またベラミーの捜査や推理ともほとんど無関係に、ルレをめぐるミステリーは「ひとりでに」転がるかのように、あっけらかんと解決してしまう(シャブロルならではの、「ミステリーの“本当らしさ”」の大胆な放棄)。そして、晩年のシャブロルがその洗練の度をいよいよ高めていった、気負いのないスマートな語り口ゆえ、こうした突拍子もない展開はしたたかな説得力をもつ。

 つまるところシャブロルは、ベラミーがルレや彼の妻(マリー・マテロン)、あるいは彼の愛人でフット・マッサージ師のナディア(ヴァイナ・ジョカンテ)に聞き込みをする場面では、あくまで「本当らしい」演出で押すいっぽうで、ルレの唐突な告白や弁護士が歌う場面では、「本当らしさ」を無視し「突飛さ」を全開させるという曲芸を、大胆不敵にやってのけるのだ。

 ところで蓮實重彦氏は、

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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