藤崎康
2012年05月07日
ルビッチが最も多く手がけたのは、ソフィストケイト(洗練)された恋愛喜劇や艶笑譚(えんしょうたん:セックス・コメディ)であり、そのウィットに富んだ軽妙洒脱な作風は「ルビッチ・タッチ」と呼ばれ、高く評価されている(ルビッチは1922年に渡米するが、ドイツ時代にすでにサイレントの傑作『花嫁人形』<1919>などを撮り、敗戦で沈滞していたドイツ映画界に活を入れ、名声を博した。遺作は『あのアーミン毛皮の貴婦人』<1948>)。
次回やや詳しく述べるが、狭い意味での「ルビッチ・タッチ」とは、直接的な性表現を禁じていた当時の倫理コードを逆手にとって、たとえば閉じられた扉や、廊下に脱ぎすてられた靴によって室内での性行為を間接的・婉曲に示す洒落た暗示法、ないしは省略法のことだ。
そして、もう少し広い意味での「ルビッチ・タッチ」には、暗示的セックス描写だけでなく、さまざまな喜怒哀楽、人情の機微などを、スマートかつ繊細に描くことも含まれる。
今回とりあげる、シリアスな戦争メロドラマ『私の殺した男』(1931、約72分)にも、それははっきりと表れている(以下、ラスト以外のネタバレあり)。
<物語:第一次大戦における西部戦線の塹壕戦で、フランス軍の青年兵士ポール(フィリップ・ホームズ)は、ドイツの兵士を銃剣で突き刺す。その若いドイツ兵は息絶える直前に、故郷の許嫁に宛てた手紙に「ウォルター」と署名する。深い罪責感にとらわれ懊悩(おうのう)したポールは、自分の殺したウォルターの家族に許しを乞うため、彼の故郷であるドイツの小村を訪れる。
村人たちは、戦勝国フランスへの憎しみから、最初はポールを敵視する。が、ウォルターの父であるホルダリアン医師(ライオネル・バリモア)は、寛容な心と反戦思想の持ち主で、妻と共に次第にポールに心を開いていく。ホルダリアン夫妻と同居しているウォルターの許嫁、エルザ(ナンシー・キャロル)も同様に、ポールと親しくなり、やがて二人は互いに心惹かれるようになる。
しかし、こうしたシチュエーションは、エルザがウォルターの墓前にひざまづいて泣いているポールの姿を目撃したこと、そしてそれを知ったホルダリアンが、ポールが生前の息子の親友だったと思いこんだために生じたのであり、ポールはこの段階では、まだ誰にもウォルターを殺したことを告白できずにいるのだ(ここでサスペンスを生んでいるのは、ルビッチが最も得意とした<シチュエーション・コメディ>の作法が、彼としては異色といってよいシリアス・ドラマである本作に、見事に応用されているからだ)。ポールは果たして、肝心の事実をホルダリアン夫妻やエルザに告白できるのだろうか……>
さて、観客はといえば、ポールの秘密(ウォルターを塹壕戦で殺したこと)を知っているからこそ、ポールに感情移入し、なおかつその秘密を知らずにポールと親密になるエルザにも、ホルダリアン夫妻にも感情移入できるのだ。絶妙な脚本設計である。
そして当然ながら、その秘密のゆくえはいったいどうなるのか、
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください