藤崎康
2012年05月08日
*ルビッチが得意とした<シチュエーション・コメディ>とは、「ある状況から生じる登場人物の間での誤解、あるいは、ある状況に関連する登場人物の隠蔽の試みなどの言動から観客に笑いをもたらす喜劇」である(『世界映画大事典』日本図書センター)。この定義から、人物の隠蔽や笑い(コメディ)の要素をとり除き、なんらかの「秘密」という要素をつけ加えて定式化すれば、コメディ以外の映画、たとえば本作のような<シチュエーション・メロドラマ>の、大まかな定義が得られるだろう(「シチュエーション・メロドラマ」は私の造語)。
すなわち人物間の誤解・思いちがいや、やむをえない事情から或る秘密を抱えたり、正体や出自を偽ったりする状況が障害となり葛藤や対立を生み、パセティック(哀切で悲痛)なエモーションをもたらすメロドラマである、と(そうしたメロドラマでは、どんな形をとるにせよ、シチュエーションは極端に運命的でドラマチックである場合が多いが、近々本欄でとりあげるダグラス・サークの傑作、『わたしの願い』もまさにそうしたメロドラマの典型)。
なお、人物間の誤解、および或る人物の隠蔽というシチュエーション・コメディの“規則”を過不足なく備えたルビッチ作品は、ヒトラー替え玉作戦を描いた対独レジスタンス喜劇の傑作、『生きるべきか死ぬべきか』(1942、抱腹絶倒!)である。
*ルビッチはまた、ヒッチコックやフリッツ・ラングやジョン・フォード同様、窓や扉をじつにうまく使う映画作家だが、シリアス・ドラマである『私の殺した男』の中盤でも、窓と扉の開閉がコミカルに反復され、快いリズムを刻むシーンがある。――連れだって歩くポールとエルザを、店の中や家の2階の窓から目にした村人たちが、次々と窓や扉を開け、目撃情報をリレー形式につたえていく様子がユーモラス、かつテンポよく描かれるのだが、そこでは細かいカット割りとあいまって、扉の呼鈴の音が高低さまざまに響き、その場面のおかしさを倍増する。
この場面にも顕著だが、ルビッチは他のハリウッド古典期の名匠同様、<見る/見られる>という視線の劇の演出にも、ずば抜けた才能を発揮した。サイレント期の秀作、『ウィンダミア夫人の扇』(1925、典型的シチュエーション・コメディ)の競馬場のシーンにおける双眼鏡ごしの主観ショットの反復などは、その好例だろう。
*また、本作ではショーウィンドーがじつに巧みに使われる。――ブティックの主人が、ショーウィンドーに飾られたパリ製の最新流行のドレスを、エルザに買わせようとする。そこではエルザはドレスを買わないが、しばらくあとのシーンで、彼女はそれを着てポールの前に現われる。つまりショーウィンドーのシーンは、のちに回収される伏線だったのである。
そしてこの一連の場面では、いうまでもなく、フランスを憎みながらもパリの流行に憧れるという、敗戦後のドイツ人の矛盾した心理も、文字通り「間接的に」――最新流行のドレスに託して――さりげなく示されるのだ。
*サイレントといえば、本作における手紙の文面のクローズアップなどは、無声映画の説明字幕を受け継いだ手法として興味深い(前述のように、本作が発表されたのはトーキーへの移行期の1931年)。もっとも、ルビッチのサイレント映画、『結婚哲学』(1924、これまた典型的なシュチュエーション・コメディの傑作)では、手紙はもちろん、楽譜、メモ、席順を記したカードなどの文字情報のアップが、字幕とともに一度ならず活用される。
ともあれ、手紙、窓、扉、あるいは前述のドレスなどの小道具や音楽などの、顔の芝居やセリフ以外のもので、どこまで人物の感情・心理・思いを間接的に表すことができるかに、ルビッチは心を砕いたのである。こうした「間接表現」=ルビッチ・タッチについて、トリュフォーは前掲の文章でこう言っている――「……ルビッチのルビッチたるところは、主題をけっして<直接的には>描かないということだ」(「ルビッチは映画の王様であった」、『映画の夢 夢の批評』山田宏一+蓮實重彦[訳]、たざわ書房、1979、136頁)。
セックス・コメディ(艶笑譚)におけるルビッチ・タッチについて、蓮實重彦氏は次のような過激なコメントをしている――「[ルビッチの]艶笑喜劇の特質は、何よりもまず、性器の
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください