聞き手=論壇女子部
2012年05月31日
佐藤 全く考えなかったです。というのは、この本の執筆とは関係なく、60年代の運動の当事者の方々の話を聞く機会があったのですが、ある程度定型化されたものがあって、自分が当時の資料を見て面白いと思ったところが全然出てこなかったんですね。
当時の回顧録などもたくさん書かれているわけですが、多くの方はストーリーが完全に出来上がっている。だから、オーラルヒストリーの手法だと、定型化されたストーリーしか出てこないんじゃないかという気がして、あえてそれを使わない方法を試してみようと思いました。
――『鈴木茂三郎』と『60年代のリアル』は、それぞれ全く違った文体で書かれていますよね。『60年代のリアル』は、かなり文体を模索されて苦労されたんじゃないかという印象を受けました。
佐藤 そうなんです。『鈴木茂三郎』はある程度論文調の文体なので、書きなれていたのですが、『60年代のリアル』は、もとが新聞の連載だったので、新聞の読者に向けてどのような文体で書いたらいいか、正直苦しみました。担当編集者の方もかなり気をつかってくださり、いつもボコボコにしてくださって(笑)。
――ボコボコですか(笑)。『60年代のリアル』は、とりあげている時代によっても、少しずつ文体が違うなと思いました。2010年代について扱っている章は、今っぽい文体になりますが、60年代について書かれている部分は、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を意識して書かれたのかなと思いました。
佐藤 いや、庄司さんの本はそれほど真似たわけではないのですが。ただ、書いているときは、扱っている時代と対話しているというか、当時起こったことを肌で感じようとしながら書いているので、その軌跡は残っているのかもしれません。だから書籍化するときも、模索のプロセスはそのまま載せたいと思ったんです。
■60年代の論壇から見えるもの
――ご執筆にあたり、60年代の『朝日ジャーナル』をかなり読んでいらっしゃいますよね。それ以外にも、当時の本や雑誌をかなり読まれたと思うのですが、どう映りましたか? その時代は丸山眞男さんをはじめ、さまざまな論者がどんどん発言していた時期ですよね。政治にコミットするという意味での「論壇」ができた時期でもあったと思うのですが。
佐藤 丸山先生は戦後すぐから書き始めていたりもするのですが、60年代に論壇が成立したといわれるのは、『朝日ジャーナル』などの雑誌媒体が大きかったと思います。新しい学者が登場したことよりも、それを受容する媒体がたくさんあるという状況があった。読者の側の教養主義も関係していると思いますが、論者と読者をつなぐ週刊誌や月刊誌の存在が重要だったと思います。そういった媒体と学問との関係性が今とは大きく違っていて、そのインタラクションがあったからこそ、当時の論壇は面白かったのかなと思います。
しかし、今はそれが失われつつある気がします。それは出版業界にも問題があるのかもしれませんが、むしろ学問の側の問題が大きいでしょうね。研究者の側に、自分が考えていることをいかに社会に還元していくかという発想が希薄になっている。その結果、雑誌がどんどん面白くなくなってしまうというプロセスなのかなと思います。
では、それを今後どうしていくかというのはちょっと難しいです。例えば一つの分野の専門家はたくさんいます。でも昔はそうではなかったんですよね。例えば丸山先生なり、(政治学者の)松下圭一先生でも篠原一先生でもいいんですけど、皆さん、それはご自分の専門なんですか?ということを書いていたんです。でも、だからこそ、政治全体の問題として語ることができたわけです。論壇はそういう人を育てていったし、それが最終的には学問の発展にも大きく貢献するという状況があった。
そういう、ある意味でのゼネラリストをいかに育てていくかというのは、論壇の側にも学問の側にもきっと求められていて、それがないと新しい政治の構想が出てくるのも難しいのかなと思います。
■「世代論」には意味がない
――ところで、やはり佐藤さんは「若い」と言われることが多いかと思うのですが、「若い」というレッテルを貼られることに対する葛藤みたいなものはありますか?
佐藤 葛藤というか、僕自身は自分を若者だと思っていないので、あまり興味はないですね。政治の話に引きつけて言えば、例えば年金や国債の問題をどうするかということを考えたときにも、若者から見て「ふざけるな、上の世代」という語られ方もありますが、何の意味もありません。じゃあ現実的にどう制度を動かしていけるかを考えなければならないわけですから。
若い世代から何かを発信したり、「若者論」を否定するということではないんです。少なくとも政治的な領域でいえば、若者ってそもそも人数が少ないので、その中で一つになろうという話をしても、なんら政治的な意味はないんじゃないでしょうか。それは数の力学において意味がないということもありますが、それ以上に「若者」を盾にした物言い自体が政治責任を回避しようとしているように思えるんですよね。『60年代のリアル』に関しては、若い人たちが主体になった運動を理解するために「若者」というタームを使わざるを得ませんでしたが、政治について論じるときに、「若者」「若者」と言ってもしょうがないんだろうという気はします。
――そこを補足する意味でお聞きしたいのですが、『60年代のリアル』では都知事選のことが取り上げられていますよね。結局、石原慎太郎氏に投票しているのは高齢者で、若い人たちは致し方なく東国原英夫氏に投票したり、あるいは選挙に行かなかったと。そこに関して、同世代に何か呼びかけたいことはありますか?
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