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若松孝二は「三島由紀夫」を題材にしてよかったのか?

古賀太

古賀太 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)

 先日のカンヌ国際映画祭の批評家週間に出品された若松孝二監督の新作『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』が、仏『ルモンド』紙(5月26日付電子版)で酷評されているのを読んで、「やっぱり」と思った。

 記事はジャック・マンデルボームというベテラン映画記者が書いたもので、見出しからして「失敗したクーデター、失敗した映画」という否定的なもの。ネットで見た限りではほかの新聞や雑誌には短い評しか見当たらないし、こういうものは日本で紹介されないと思うので、一部引用する。

 「三島の政治的な捨象は、この人物の持つ意味を否定するかのようだ。三島はまるで趣味の悪い芝居のように演じられている。たぶんこの極端な儀式性こそ若松が見せようと思ったのだろう。しかし三島を(作品についても、家族関係についても、武道の理想と同性愛の間の緊張関係についても一切触れず)、狂信的な漂流者としてのみ描いたために、この人物の複雑な魅力が描けなかった」

 その後に「最小限の演出の純度の高さやドキュメンタリーと再現ドラマの混淆、映画のコードを大胆に破る形式など、いつもの若松の豊かな表現も、今回の障害は越えられなかった」と締めている。

『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』

 この記事の論理は単純だ。三島は偉大である。若松も(三島ほどにではないにしても)、重要な監督だ。ところが若松は三島の魅力をファシズム的側面に限定したために、失敗してしまった、というもの。フランスにおいて、1980年代までは(つまり大江健三郎がノーベル賞を取り、その後村上春樹が流行する前は)、日本文学といえば、まず谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成の3人だった。現在でも三島由紀夫の小説の人気は高い。

 一方、若松孝二も国立ポンピドゥ・センターで全作品上映が企画されるなど、フランスではすでに巨匠の扱いだ。記事は、今回はアプローチを間違っただけだとし、若松自体の才能は否定していない。

 私も今回の作品には疑問が残ったが、この記事とは観点が異なる。私が思うのは、

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