2012年06月02日
これはひとりの映画監督が長い歳月の試行の果てに到達した稀有の境地であり、1960年代後半の若松映画のでたらめなパワーの炸裂を知る古い観客にとっては大いなる驚きである。すべての約束事を破壊してかまわぬと信じた映画的精神が、いまや成熟や老成などとは無縁の場所で、しかし、ある映画的スタイルの、完璧に近い実現に成功しているからだ。
まずは、この静謐さ、内に圧倒的な噴出への祈願を隠しながら、表層は分厚く透明な氷のように滑らかに閉ざされた映画の潜在力に酔わされ、圧倒される。若松孝二はすごい場所までやって来た。
しかし、同時に、この映画の潜在力は、余人には耐えきれぬニヒリズムに支えられているのだと実感する。つねに画面をひたす物憂い黄昏のような気配、大量失血後の血の気のなさを髣髴させる烏賊墨がかった色調。それは、すべてが過去のことに属し、すべてが取りかえしのつかなくなった亡霊の眼から眺めた世界の空気のようにみえる。
じっさい、この映画に描かれた事実は40年以上も前のできごとに属し、すべては取りかえしがつかない。「生きながらえる未来を考えるのは堕落だ」とは、本作の主人公・三島由紀夫の言葉だが、この映画が提示しているのは、生きながらえることのなかった未来をさらなる未来から見つめる亡霊のように冷徹なまなざしだ。若松孝二は、自決前の三島由紀夫が日本の未来に絶望していたように、日本の現在に絶望しているのかもしれない。
だが、絶望の末に劇的に死ぬのではなく、生きながらえることを選んだ若松孝二は、
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