メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

井土紀州の小傑作、『ふたりのシーズン』――展開の<早さ>、澤木柚季江の映画的存在感に感服!

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 井土紀州監督の最新作『ふたりのシーズン』は、非常によく出来た恋愛(?)映画の小傑作だ。5月18日付本欄で紹介した“エロチック・ノワール”の秀作、『彼女について知ることのすべて』に引き続いての矢継ぎ早の公開だから、2012年は井土の映画力がフル稼働しはじめる年になるかもしれない。

 ともかく、74分の『ふたりのシーズン』は、犯罪と性行為の描写を中心にした禍々(まがまが)しいフィルム・ノワール、100分超の『彼女について――』とは真逆の、ラブコメ・テイストを主調にした軽いタッチの、とはいえかなり濃厚なセックス・シーンや不意打ち的な暴力シーンを含む、なんともジャンル分けしにくい、しかし文句なしに面白い“小品”だ(面白ければジャンル分けなんてどうでもいいわけだが。なお本作は作り手の自由な発想を生かすことを目指す、「青春Hシリーズ」の23作目)。

<物語:耀一(きいち:磯部泰宏)は、引っ越し先で、都(みやこ:澤木柚季江、好演!)と偶然知り合う。いわば「憎めないビッチ」の都は、耀一と会った日に、不倫相手の稲葉(扇田拓也)に振られてしまった。耀一はその日の夜、都と関係してしまう。自分の部屋に帰ると稲葉のことしか考えられなくなる都は、そのまま耀一の部屋に居つくようになる。恋仲というわけではないが、耀一と半同棲状態になってしまった都。が、ある日、都のもとに別れた稲葉から「会いたい」と連絡が来ると、彼女の思いは揺れはじめ、やがて都、耀一、稲葉は、通常の三角関係とはちがう、奇妙な“三人関係”になる……>

 うまいなあと思ったのは、3人の関係をどろどろした愛憎劇にせず、かといって過度にコミカルにもせず、淡々とドラマを展開させながらも、要所要所で見る者を小さく驚かせるという演出であり、プロット(つまり脚本)だ(本作の脚本は川崎龍太)。 

 さらにいえば、本欄でさまざまな傑作、秀作を論じるさいに繰り返しているように、本作の井土も、行動を起こす登場人物の心理的動機を、説明的にくどくどと示すことは決してない(彼、彼女らの心の動きが無視されるわけでは毛頭ないが)。

 つまり『ふたりのシーズン』でも、最近の大半の映画をダルくしている過剰な心理説明が、ほとんど最小限に切り詰められているのだ。結果、彼、彼女らはともすれば唐突にも見える呼吸で、走りだしたり、突然現れたり、セックスしたり、別れたり、和解したりする。あるいは、恋敵(こいがたき)になってもよいような二人の男が親しくなり、一方が他方に仕事を世話したりするといった具合に、である。

 にもかかわらず、彼、彼女らの心の動きは、見る者にリアルに伝わってくる。このことを逆にいえば、登場人物の心の動きは、説明的なセリフや顔の大芝居以外の、たとえば身体のアクション、場の気配、小道具の使い方などによっても、かなりの程度、見る者に伝わるのだ。

 誤解なきように付け加えるなら、もちろん『ふたりのシーズン』の面白さは、セリフの妙にもある。ただ、いくつもの練られたセリフが、人物たちの心情とは真逆だったり、微妙にズレていたり、物語とは直接に関係のない日常の些事(さじ)に関するものだったり、逆にあまりにストレートすぎて、観客に考えるヒマなど与えないショッキングなものだったりと、井土=川崎はあの手この手で<説明>を回避している。むろんそこでは、画面構成の冴えが、そうした非説明的なセリフと相乗効果を上げて、フィルムの精度をぐーんとアップしている。

 たとえば、稲葉から連絡が来た直後、都は耀一に「稲葉には絶対会わない」ときっぱり言うが、次のカットで彼女は

・・・ログインして読む
(残り:約1946文字/本文:約3435文字)