2012年07月05日
目抜き通りや裏町の迷路のように入り組んだ路地を、主人公は執拗に歩きまわり、臙脂(えんじ)のワンピースを着てベージュの大きなバッグを肩にかけた色白で美しいヒロインを尾行する。そのさまをゲリンは、多様なカメラワークや画面構成で絶妙に描いてゆく(遠近さまざまなサイズのショットの、前進移動・後退移動・固定画面/フィックスの、あるいは長回しと短いショットの融通無碍な組み合わせ……)。
また、もともと迷路のように路地が交差するストラスブールの裏町が、編集/カット割りによって断片化され、さらにいっそう迷路化されて見る者の方向感覚を失調させる点も、映画ならではのマジックとして興味深い。
そしてやがて、ヒロインを追って主人公が乗りこむ市電の車内が、この奇妙な追跡劇の最後の舞台となる。いきおい、主人公はヒロインに至近距離にまで接近し、ついに彼女に話しかけるが、さてさてどんな展開となるのか、――それは見てのお楽しみである(ただ、このヤマ場で主人公が口にする言葉には、ゴダール『勝手にしやがれ』(1959)のジャン=ポール・ベルモンドがラスト近くでつぶやくそれと、まったく同じセリフが含まれていることだけはバラしておく)。
*主人公が、カフェの奥に座ったシルビアそっくりのヒロインを<ガラスごし>に見つけるところでは、鏡像/反映像をふくむ何層もの映像が織りこまれた精妙な画(え)づくりがなされていて、目を奪われる。手前にフレーム外の相手と談笑している女性を配し、その奥に彼女のうしろ姿が、テラスと室内を仕切る窓ガラスに映り、そのまた奥(の室内)にヒロインの姿がとらえられ、さらにその奥に別の女性が見える、といった幻惑的なビジュアルだが、こうした、特殊効果などとは無縁の多重化した映像のヴァリエーションは、その後も、市電の大きな窓を<流動する鏡>として用いた美しい画面を筆頭に、何度か反復される。
*そもそも映画を進行させていく際に、あるイメージを反復しつつ、それらの間にズレ(差異)を生みだしていく、いくぶんかは小津安二郎的な手法は他のゲリン作品にも見られるが、もとより『シルビア――』は、シルビアとヒロインとの類似・相似をめぐる、さらには一人の女性が複数化・分身化していくことについての――その意味でも『めまい』を応用した――映画にほかならない。
なおゲリンによれば本作は、『めまい』や、路面電車の素晴らしい描写で有名なW・F・ムルナウの名作、『サンライズ』(1927)のほかに、二人の女性が同一人物かもしれない、という強迫観念に呪縛された主人公の故郷の村への小旅行を簡潔な文体でつづった、あのジェラール・ド・ネルヴァルの傑作中編小説『シルヴィー』(仏、1854)が、着想源のひとつだという(ゲリンの映画の中でも主人公は、「シルビア」ではなく「シルヴィー」と発音する)。
*本作では映像のみならず、<音響>もきわめて重要である。前述のテーブル上のグラスがひっくり返る音や、人々の話し声、主人公/観客の視界をさえぎるように何度も画面を横切る市電の通過音、ノートが風でめくれていく乾いた音、ヒロインが登場する直前の場面でヴァイオリンが奏でる哀愁を帯びたメロドラマティックな曲、尾行場面で鼓膜を突き刺すようにカツカツと響く硬い靴音(ヌーヴェルヴァーグのオムニバス映画『パリところどころ』(1965)のジャン・ルーシュ編「北駅」をほうふつ!)、バー“飛行士”で流れるポップス、その他街路に立ち騒ぐさまざまなノイズを、ゲリンは現実音に見せかけて、じつは周到に設計された<効果音>として画面に響かせていく。まさに本作は、目で見る映画であると同時に、音の粒子のつぶ立ちを耳で<聴く>映画でもある。
*ようするに蓮實重彦氏がいうように、
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