青木るえか(あおき・るえか) エッセイスト
1962年、東京生まれ東京育ち。エッセイスト。女子美術大学卒業。25歳から2年に1回引っ越しをする人生となる。現在は福岡在住。広島で出会ったホルモン天ぷらに耽溺中。とくに血肝のファン。著書に『定年がやってくる――妻の本音と夫の心得』(ちくま新書)、『主婦でスミマセン』(角川文庫)、『猫の品格』(文春新書)、『OSKを見にいけ!』(青弓社)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
って、さえない男が合コンで、これならオレでもイケるかも、って感じのさえない女に話しかけるキッカケ台詞みたいである。
やはり人間として、きちんとしてボロを出さないためには、Twitterなんかやってはいかんと思う。
すべて自分がやっているからわかることです。
Twitterをやって陥る穴はいくつもある。というよりも、あらゆるところに落とし穴が潜んでいるといっていい。
まず、失言。
それらしくカッコつけたことを言ってしまう、シャレたことを言ったつもりですべる、というのがある。これには二段階あり、すべったことを悟って身の置き所がなくなるのと、すべったことにすら気づかないでいい気になっているのがある。当然後者が、よりミットモナイのだが、気がつかないので本人はそれほど辛くないという利点はある。
そして論争。
Twitterで言い争いするのは、なんだかこう、のめりこみますね。だいたい、こんなところで言い争いしようなんて人間は、自分は頭が良くて相手をバカだと決めつけており、相手をくさすにも「シャレた皮肉(のつもり)」をこめたりする。
言われたほうも「自分は頭が良くて相手はバカ」と思っているから、相手の皮肉もただちにわかって「バカのくせに皮肉だってよ」とますますバカにする。燃料には事欠かない。つか、自家発電が延々可能。
Twitterの言い争いを見ていて、ひとついいことがあるとすると、「人の考えなど白黒できっぱり決められるもんじゃない。自分の胸に手を当ててよく考えてみろ」ということがわかることで、今でいえば(私のTwitterのタイムラインでは)反原発運動についての言い争いがすごく多い。
これを見てると、私は「原発なんかさっさと全部止めろ。原発再稼働ゴーの大飯町議会はもうどうしようもない。まだ原発で行く気か。しかしだからといって自分は別に節電はする気は無い。停電するならその時は甘んじる。原発がなくなることで電気料金値上げしなきゃどうしようもないっていうなら払う。しかし反原発デモには出たくない。一緒になりたくない。なんでああなっちゃうのか。なんか「上々颱風」(というバンドがある)みたいで、どうしても受け付けない。子供たちの未来がとか言われるとなんかもぞもぞする。しかし反原発デモを揶揄したり、シタリ顔で批判(子供を盾にするなとか)したりしている人のことは嫌い」という感想が湧く。
まったく、しかし、しかし、の連続で、こうして文章にしてみるとぐっちゃぐちゃな感想ではないか。でも、人間の気持ちなんてこんなもんだろう、ということが自分を省みてよくわかるので、あんまり他人に「白か黒か」と迫るのはやめようと思った。
そして、いちばん多いと思われる、身の回りのことをただつぶやくだけという、Twitter本来の(そうなのか?)使い方であっても、なんだかいやーな気持ちを見る者に喚起させるという人もいる。何を食ったとかアレを読んだとかドコに行ったとか、知らない人間がやってると「誰もおめえのことなんか聞きたかねえよ」と思うし、著名人がやってると何かすべて自慢に聞こえる。これは多分に私のコンプレックスもあるのかもしれない。
でもなあ、著述業の人の、締め切り終わったとか、これから書きますとか、業務連絡とか、そういうのはほんとうにいやーな気分になる。
ふだん、書くものがいいなと思っている人にこれをやられた時の落胆はけっこう大きい。