2012年07月11日
しかし、コペルニクスが死の直前の1543年、『天体の回転について』で地球が太陽の周りを回っていると「地動説」を唱えてから、まだ500年も経っていない。その「地動説」も暫くは後継者が現れず、ローマ教皇庁は1616年に禁止する布告を出した。そのようなさ中、「地動説」を擁護して、1600年に教会権力によって火焙(あぶ)りに処せられたのが、ジョルダーノ・ブルーノであった。
このルネサンス期の哲学者の名は、日本では主にそうした天文学史の中のエピソードとして登場するだけであるが、「それでおさまってしまう哲学者ではない」と、2012年3月、『ジョルダーノ・ブルーノの哲学――生の多様性へ』(月曜社)を上梓したのが、1981年生まれ、新進気鋭の岡本源太である。岡本によれば、現在日本でブルーノを研究しているのは、彼を入れてたった二人だけらしい。
キリスト教会の力が強大であった中世ヨーロッパ世界では、生命は神から賜った魂・精神の側に宿るものであり、物質とは死んだものであるという考えが支配的であった。それに対し、物質の方が生命を持っていて、そこから精神が生まれるのだと、生命観を逆転させた人こそ、ジョルダーノ・ブルーノであった。
自然のなかの事物のあらゆる形相を魂と捉えるブルーノの視点から見れば、人間と動物だけでなく、生物と無生物との境界も相対化され、世界全体が生きていることになる。人間が神から与えられたとされる精神の特権性が否定され、理性/感性/欲望のヒエラルキーも崩壊する。欲望とは欠如でなく力能の充溢にほかならず、感情は忌避すべきものではありえないのである。
欲望や感情は、たしかに人間をものごとに繋ぎ止め、受動的な状況に置く。だが、ブルーノは受動性を、「されることができる」という一つの「力能」として積極的に評価するのだ。「なし、産出し、創造する力能があるところ、なされ、産出され、創造される力能がつねにある」。
ブルーノによると、幸福とは「静止」ではなく「運動」である。即ち、欲望を満たして感情をもたなくなることではなく、まさしくつねに欲望をもちつづけ、「持続的な感情」を抱いていることなのである。
ルネサンス期の(決して近代の、ではない)「ヒューマニズム」ならではの、大らかな人間讃歌はまた、リアルな人間観察でもある。
食事の楽しみは、空腹の苦しみが持続しているそのあいだだけ持続するのであり、
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