2012年08月20日
しかし、そうした流れは、2011年に公開された『モテキ』と、それへのアンサーとなっている7月公開の『苦役列車』で一段落したように思える。この両作品は、ブームへの新たな参入を躊躇させるだけの強度があるからだ。
こうした日本青春映画シーンで、大きなターニングポイントとなる作品が現れた。それが朝井リョウの小説を映画化した『桐島、部活やめるってよ』(監督・吉田大八)だ。
舞台は地方の高校。11月のある金曜日、2年の生徒たちの間ではバレーボール部のキャプテン・桐島が部活を辞めたことが囁かれる。しかし、当の桐島は登校してこず、携帯電話にも連絡がつかない。バレーボール部のメンバーや桐島の友人たち、そして同じクラスの恋人は困惑する。
その後も登校しない桐島によって、一部の生徒たちに小さな波紋が拡がり続ける。それは、桐島と別の世界を生きている生徒たちにも、間接的に影響を与える──。
物語だけ見ると、とてもシンプルだ。“桐島退部事件”を中心に、金曜日から火曜日までの5日間の生徒たち10数名を描いた群像劇だ。しかし、この作品が新しいのは、学校に生じる生徒間格差を克明に描いているところにある。
生徒間の格差は、実は80年代から見られることだ。体育会系部活が上位に位置し、文化系部活は下位に位置する──それは宮崎あゆみの「ジェンダー・サブカルチャーのダイナミクス」(http://ci.nii.ac.jp/naid/110001877851 1993年)や上間陽子の「現代女子高校生のアイデンティティ形成」(http://ci.nii.ac.jp/naid/110001176307 2002年)といった学術論文としてもまとめられてきた。
アメリカの青春映画ではお馴染みのモチーフであり、たとえば『ザ・クラフト』や『ミーン・ガールズ』、あるいはドキュメンタリー『American Teen アメリカン・ティーン』などで克明に描かれてきた。
2000年代に入り、このような格差が日本では“スクールカースト”というネットスラングとしても現象した。その要因は、携帯電話やインターネットにある。携帯電話やSNSにより交友関係が可視化され、ネットによってさまざまな序列が浸透した。
やおい作品を好む女性は「腐女子」と名乗り、性愛問題に乗り出せない男性は「非モテ」と自らを規定した。潜在的に生じていた状況がスクールカーストと命名されることで共通認識となり、若者たちはその格差を前提にコミュニケーションを取るようになっていった。
映画は、彼らの携帯電話やインターネットの使用を詳細に描いているわけではない。しかし、確実にひと昔前の若者と異なるのは、10代前半から携帯電話を持ち、モバゲーやあるいは「学校裏サイト」のようなインターネット空間を彼らが生きてきたことだ。映画で見られる彼らのコミュニケーションの裏には、携帯やメールなどによる膨大な非対面コミュニケーションが潜んでいる。
携帯やメールを多用する彼らのコミュニケーションは、しばしば「関係が希薄になった」と揶揄されるが、それが完全に見当違いであることは、この映画を観ればよくわかるはずだ。コミュニケーションで行き交う情報量が増したからこそ生じる、極めて微細な関係がとても丁寧に描かれている。
おそらくこの映画は80年代の『台風クラブ』や90年代の『桜の園』などと比較されるが、やはり時代が決定的に異なるのだ。比較するのであれば、スクールカーストを描いた木堂椎の小説『12人の悩める中学生』やドラマ『野ブタ。をプロデュース』のほうが適切であり、映画では2000年代の若者をここまで克明かつ繊細に描いた作品はこれまでなかったと言っていい。
彼らの微細な関係は、映像技法によっても見事に表現されている。その特徴は、
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