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『トータル・リコール』リメイク版――記憶とは何か、自分とは何かを問うSFサスペンス映画  

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 フィリップ・K・ディック原作、ポール・ヴァーホーヴェン監督の『トータル・リコール』(1990)は、<記憶の書き換え>をめぐるSF映画の“古典”だが(星取り評:★★★★☆)、公開中の同名作品はそのリメイクである。監督は『ダイ・ハード4・0』(2007)などのレン・ワイズマン。

 リメイク版『トータル・リコール』は、<記憶の書き換え/上書き/植えつけ>というメインテーマや物語の大まかな流れはオリジナル版と同じだが、ドラマ展開のかなりの部分、舞台設定、ディテールは大幅に変更されている(以下、部分的なネタバレあり。なお“トータル・リコール”とは、「記憶の完全回復」のこと)。

 21世紀末の世界大戦で、人類が大量の化学兵器を使用した結果、地上の大半は居住不能となり、世界は再編され、人類は富裕なブリテン連邦(UFB)と、その植民地である貧しいコロニーに二分された(なんとも今日的な設定)。UFBの労働力であるコロニーの市民は、巨大エレベーターに乗って毎日地球の裏側にあるUFBに通勤していた。

 やがてコロニーには、“レジスタンス”と呼ばれる反体制組織が誕生。リーダーのマサイヤス(ビル・ナイ)に率いられた“レジスタンス”は、人類の平等とUFBからの独立を求め、連日のようにテロ活動を行なっていた。いっぽう彼らから市民の安全を守るため、UFB代表のコーヘイゲン(ブライアン・クランストン)は、ロボット警官増産の必要を唱える(ここまでがドラマの初期設定)。

 コロニーで妻のローリー(ケイト・ベッキンセール)と暮らすダグ・クエイド(コリン・ファレル)は、ロボット警官製造工場で働く、一見平凡な男だが、いつの頃からか、彼は夜ごと見知らぬ女性と病院から脱走する夢を見るようになっていた(その女性はやがて実在の(?)メリーナ/ジェシカ・ビールとして“再登場”する)。

 そんなある日、ダグはリコール社のCMに関心を持つ。リコール社とは、購入者の実際の記憶をかき消すかのように、購入者の脳に冒険や恋などの架空の記憶を書き込み、彼、彼女が、それを擬似的な過去・現在・未来として体験する、つまりは変身旅行=仮想現実の旅をするという娯楽を売る企業だ。

 ダグはリコール社を訪れ、「凄腕のスパイ」という記憶のパッケージを買い、アクション映画のようにその変身旅行を楽しもうとした矢先、リコール社に警官隊が突入する。が、逮捕されそうになった瞬間、ダグは超人的な身体能力を発揮、あっという間に警官らを叩きのめしてしまう。

 自分が何をしたのかわからぬまま、ダグは帰宅し妻ローリーにリコール社での出来事を話すと、彼女の態度が急変、とつぜんダグに襲いかかり、彼に彼のそれまでの記憶はすべて偽物で、ダグ・クエイドという男は存在せず、ローリーも彼の監視役だったと告げる。 

 実はダグの正体は、カール・ハウザーというUFBのスパイであり、彼は活動中にコーヘイゲンの陰謀を知り“レジスタンス”側に寝返った(つまり二重スパイとなった)が、UFBに捕えられ記憶を書き換えられたのだった……。

 こうした、ディックの原作「追憶売ります」や、オリジナル版映画から引き継がれた、<記憶の書き換えによる「自己」の足場の揺らぎや喪失>というテーマは、それ自体としても興味深い。そして、ワイズマンは少なくとも前半までは、くだんのテーマを巧みに物語展開にからめて、テンポ良く視聴覚化してゆく。

 カメラも最近のハリウッド映画にしては、被写体に寄りすぎず、また過剰に多方向に動くこともなく、上出来だ。さらに、オリジナル版ではなく、明らかに『ブレード・ランナー』(1982、リドリー・スコット)への目くばせであるコロニーのセット・デザインも秀逸。いつも酸性雨が降り続いているその貧民街では、軒をつらねる和風&中華風の娯楽施設や住宅を彩る極彩色のネオンや、街路を埋め尽くす色とりどりの傘などの視覚的なアイデアが、舞台背景として目を楽しませてくれる。

 だが惜しむらくは、中盤の見せ場であるカーチェイスや、それ以降ヒートアップする様々なアクション・シーンが“やり過ぎ”で、かえってリアルさ(迫真力)が希薄になってしまう点だ。こうしたたぐいの描写はむろん、本欄で何度もくり返しているように、今日のハリウッド映画の最大の弱点なのだが、いくら乗り物が猛スピードで走ろうと、人物の動きが超人的に敏捷であろうと、またどれほどカットが細かく割られようと、一つひとつのシーンが長すぎるので、物語展開そのものは<遅く>なってしまうのだ。

 そしてまた、そうした“やり過ぎ”描写ゆえに、観客は目の前で起きていることを身体的に実感しにくくなり、それらの出来事から置き去りにされるような気分になってしまう。

 しかしこれは、かならずしもCGI(コンピューター作成イメージ)やVFX(特殊効果)を使用しているから、というより(それらは乱用しなければ問題はない)、あくまで「過剰な表現」によって視覚的インパクトを生みだそうとする、今日のハリウッド的映画文法によるものだ。

 ちなみにそれが、雰囲気描写に優れた“香港ノワール”、たとえば公開中の『強奪のトライアングル』(2007、ツイ・ハーク、リンゴ・ラム、ジョニ―・ト―)などをも浸食しているのは、由々しき事態である。<星取り評 ・・・ログインして読む
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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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