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教育者・若松孝二監督の思い出

古賀太

古賀太 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)

  若松孝二監督が亡くなられたというニュースを聞いて思い出したのは、今年の2月1日のできごとだ。私が教えている日大芸術学部映画学科の学生と企画した「映画祭1968」のトークショーに出演していただいた。

 この映画祭は、学生がテーマを決めて作品を選び、上映やトークの交渉も自分たちでやるというもの。若松監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(08)を上映することに決めて、女子学生のKさんが若松プロに電話した。

 本人が直接電話に出たのに感激し、「上映は5万円で大丈夫」という返事をもらって喜んでいたKさんは、その後トークショーの交渉をするあたりから、監督に幾度となく携帯電話越しに怒鳴られることとなった。

 「そんな先のことはわかるか」「学生の相手をしている暇はない」

 極めつけは、プリントを送ってくれと電話で頼んだ時だった。「取りに来い、今すぐだ。もうすぐ出かけるから1時間以内に来い」と言われたKさんは、同級生2人を連れて若松プロに出かけ、タクシーで劇場まで運んだ。

 そんなことがあって、トークショー当日は学生たちも私も緊張していた。トークは夜10時過ぎだったため、外でゆっくりと夕食を取っていた私たちは、8時頃に劇場から電話をもらった。「若松監督がいらっしゃいました」。

 その時の我々の慌てぶりといったらない。全力で走って劇場に戻り、土下座せんばかりに「お待たせして申し訳ございません!」。

 ところが監督はにやにやしながら「こっちが早く来たからねえ」。

 私は「これまで学生が失礼なことを繰り返しまして申し訳ございませんでした」。すると、

 「あ、あんたが先生? こういう映画祭をやることはいいと思うんだけど、もっと礼儀を教えたほうがいいかもしれんよ。最初はまず挨拶に来こなくちゃね」

 その後2時間、監督は学生との会話をいかにも楽しんでおられる様子だった。

「映画祭1968」のトークショーの後、筆者(後列中央)や学生たちと

 「撮りたい映画はいっぱいある。自分の金で撮るんだから誰にも文句は言わせない」

 「今の若者は戦後の歴史を知らない。自分がそれを伝えないと、誤って伝わってしまう。『実録 連合赤軍』も『キャタピラー』(10)もそうやって作ったし、あと3本あるんだから」

 酒も飲まず、コーヒーだけで終始ご機嫌だった。

 今考えてみると、その2本に『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(12)を加えたいわゆる「昭和三部作」は、教育者としての使命感に導かれて作った映画だった。『実録・連合赤軍』は、『突撃せよ!あさま山荘事件』(02)を見た若松監督が、警察の側からしか描かれていないことに不満を持って製作を決めたことは有名な話だ。そして『キャタピラー』で戦争の欺瞞を暴き、『11.25』では、三島由紀夫の自殺の真実に迫った。

 正直に言えば、本人が熟知している『実録・連合赤軍』は細部がしっかりと描かれていて傑作だと思ったが、『キャタピラー』はいささか図式的すぎるし、『11・25』についてはこの欄でも書いたが、要素を詰め込みすぎて、説明的になっていると思った。それでも若松監督としては、「自分が教えないと」と作らざるを得ない思いだったのだろう。

 我々の映画祭の若松監督のトークショーでは、『実録・連合赤軍』について、「事実を撮れるのは、俺しかいないですよ」と言い切った。司会のKさんに「最後に学生へのメッセージを」と言われた時の答えがおもしろかった。何と

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