鈴木邦男(「一水会」顧問)
2012年10月23日
9月14日、一水会結成40周年大会に若松孝二監督は来てくれた。それが最後になった。
「今度、原発事故の映画を撮るよ」と言っていた。「国家が隠していることを全部暴いてやる」「国家が喜ぶ映画は撮らない。死ぬまで抵抗だよ」とも言っていた。
楽しみだ。まだまだやる気だよ、監督は、と思った。原発のほかにも撮ってもらいたい映画はたくさんある。
「死ぬまで」と言っていたが、それはまだまだ先のことだと思っていた。ところが……。こんなに急だとは思わなかった。
一水会結成40周年大会には、昔の右派学生運動のOBたちもたくさん来ていた。元「楯の会」の人たちも6人ほど来ていた。彼らは皆、若松監督にお礼を言っていた。
「素晴らしい映画を撮ってもらい、ありがたいです。感激しました。三島先生、森田必勝さんも喜んでいると思います!」と口々に言う。森田必勝氏は「楯の会」学生長で、三島由紀夫と共に自決した。25歳だった。
若松監督の『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』は、森田氏ら若い青年たちの、国を思い、決起へと思いつめる様子が実にリアルに描かれている。元「楯の会」の人たちが言っていた。
「左翼の若松監督が三島先生や森田さんの映画を撮るというので、心配だった。左翼の人なんかに分かるはずはないと思っていた。でも、映画を見て驚いた。先生や森田さんたちの気持ちが一番分かっている。感激しました」と。
若松監督は、「左翼」と思われているが、左翼・右翼などという小さな区分はとうに超えていた。パレスチナには何度も行っているし、日本赤軍の人たちとも親しい。映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮った。だから「左翼」と思われている。
ところが今度は三島だ。「我々の仲間だと思っていた監督が、どうして右翼の映画を撮るのだ?」と左翼の人々は戸惑った。
右翼の人たちだって反発した。右翼にとって三島は神だ。「それを左翼の監督が撮るなんて」と思い、「許せない」と口走る者もいた。
「そんな連中など、全て敵に回してもいい」と思い、若松監督は撮った。勇気のある人だ。周りは皆、敵だ。支援する人はいない。そんな状態で映画を撮ろうと思う人はいない。ただ一人、若松監督だけだ。
三島や「楯の会」に対する単線的、表面的な見方に我慢がならなかったのだろう。右翼的な三島が、右翼的な青年たちと、右翼的に思いつめて決起した。そんなものではない。全共闘への共感もあり、失望もあった。「よど号」ハイジャック事件、金嬉老事件、ベトナム戦争……そうしたものが、つまり、あの時代が三島や若者たちを突き動かした。あの時代の若者たちの愛や夢や理想を描きたかった。それは左翼や右翼を超えてあったものだ。
『11.25自決の日』の中で、「よど号」ハイジャックのニュースを見て、三島が「先を越された!」と叫ぶシーンがある。これは事実だ。そのことを聞いた「楯の会」の人間を、撮影前に若松監督に紹介した。今の右派的な若者は言った。「我々の尊敬する三島先生が左翼なんかに好意を持つはずがない。“先を越された”と叫ぶはずがない」と。
しかし、そんな「左右のくだらない区分」を超えていた人だ。三島は。そして若松監督も。
今年の4月、僕は北朝鮮に行った。その時、若松監督からミッションを与えられた。
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