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[4]第1章 盛り場・風俗篇(4)

カフェー賛否論

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

 当局の取り締まりにもかかわらず、カフェー・ブームはやみそうになかった。

 世論に大きな影響力をもっていた新聞が賛否両論をのせた。朝日新聞は「現代世相展望」のなかで、昆虫学者・横山桐郎のエッセー「カフェー礼賛」を掲載した。

 横山は都市におけるカフェーの増加と発展はじつに素晴らしいと絶賛し、一部の別室をもうけているカフェーなどは別にして、総じて若者が安直に気休めや癒しが得られるとして、カフェーを積極的に評価する。

 「カフェーが多くの弊害を醸しつつある事は確かだが、又一方において、世知辛い現代社会に働いている若人達が、カフェーによっていかに多くの目に見えぬ慰安と活動のエネルギーとを得つつあるかを考える必要がある。殊にいくら物質的進歩において禽獣を凌ぐ事遙かなるものがあると威張っても、一方に生殖という生物界普遍の本能を持ち、それを遂行している以上現代の人間の要求にもっとも適合したカフェーのごときを、我々の社会から除く事は出来ない相談である」

銀座裏のカフェー街=「アサヒグラフ」昭和5年4月30日号

 さらに横山は舌鋒するどく、年をとって家庭をつくり子供をもった人たちには休息と慰安を家庭にもとめることが出来るが、「独身の元気はつらつの」若人には、「カフェーは家庭にかわるオアシス」であるとし、カフェーを批判し悪罵する老人や頑固者が、芸者や待合や遊郭の存在について黙っているのは、はなはだしい矛盾であると指摘する(東京朝日新聞、昭和4年11月27日)。

 一方、アナーキスト大杉栄を痴情のもつれから刺したこと(日蔭茶屋事件)で著名になった神近市子が、同じ朝日新聞に、「エロの乱舞」というエッセーを寄せている。神近はアメリカの雑誌からアメリカのナイトクラブやカフェーについて引用し、それらがアメリカ社会に定着していると紹介し、今の日本にないのはナイトクラブとカフェーのレビューであると強調する。

 また、現在カフェーでレビューを演じることを「許す許さない」と役人が理想論をふりまわしているが、日本が資本主義国家として続いていく以上、カフェー経営者の運動の前に役人がコロリといくのは時間の問題であると決めつけ、さらにこう指摘する。

 「何故なら、極端なエロチシズムの横行は、富が社会の一部に偏在するようになる時にくる現象だからである。富が少数の人々の手に集まる結果、安定した少しでも楽な生活をしたいと思う婦人たちが、この有産階級の男たちのところに殺到するのは当然である。そしてこの殺到する時に彼女たちが巻き起こす波紋が社会を悩ますエロの現象となって現れるからである。

 富の偏在を絶えず増長する資本主義がつづく限り、この風潮は続くことであろう。為政者によってそれはいつも時代の人心の弛緩とか道義心の欠如とか個人に責任が帰され、刑罰取り締まりの励行、道義心の養成などという唯心論的な対策が捻出されが、それが何等の効果もないということは、たれよりも取り締まる役人がもっともよく知っているであろう」(東京朝日新聞、昭和4年11月27日付)

■「大阪式」への強い反発

 カフェーの横行には賛否両論があるものの、カフェーそのものは一種「必要悪」の存在であり、一方に遊郭、待合などがある以上、こちらのみをことさら厳しく取り締まるのは、当局のやるべきことではない。そんな空気が趨勢になっていた。

 「カフェーは、近代感覚の所産である。それは花園に咲いた、まどわしの毒の花だ。その根は、深く地上に下ろされた。根絶やしには絶対に出来ない。(中略)それは是非論を超えた根強き存在である(『歓楽の王宮カフェー』)

 もっとも、大阪勢の東京進出については、知識層を中心に当然強い反発があった。安藤更生は『銀座細見』でこうこきおろす。

 「銀座は今や大阪カフェ、大阪娘、大阪エロの洪水である。大阪カフェの特色は先ず第一にエロだ。大阪女給はエロ工場での熟練工だ。この点では全く東京娘は叶わない。それともうひとつの特色は大衆性にある。大阪のカフェの空気はインテリ性を没却している。しる粉屋三好野に入ると同じ気持ちで入れるのだ。全く大阪資本は日本を征服しつつある。(中略)大阪人はカフェのようなものにまで組織的であり、投資的であって大資本を集中する。かつてプランタンあたりから発生した家庭手工業的な気分的な発展経路を持つ従来の銀座カフェはこの資本の巨弾にあってはひとたまりもない。彼等は巨大な建物と莫大な宣伝費で及び難いサービスを提供することが出来る。

 ダブダブの足袋と口をきけば唾の飛ぶような関西弁と無知な会話と鈍感なサービスとエロ本位とろくな食物も飲物もない。何が一体面白いんだ。客の個性も見分けられないサービス振りは大嫌いだ。大勢女を集めて騒ぐのが好きならレビューでも観に行った方が余程気がきいている、そうでなければ玉の井かチャブ屋へでも出掛けた方がいい」

 1930(昭和5)年、大阪のカフェーは3329軒、女給の数1万2578名(大阪府警察統計)にのぼった。盛況ぶりにおいて東京にまったく劣らない。さらに神戸、博多、広島、名古屋、仙台、札幌等々日本全国の大都市を中心にカフェーが盛り場を席捲する勢いだった。

■谷崎潤一郎のカフェーへの期待 

 こうした新風俗について、文豪・谷崎潤一郎が大阪朝日新聞(昭和4年8月9日付)に「カフェー対お茶屋、女給対芸者」というタイトルで次のような随想を書いた。

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