2012年10月26日
『フタバ~』が素晴らしいのは、多くの3・11関連のドキュメンタリーとは違い、双葉町民の避難生活を流れゆく時間の中で「いかに」記録するかに腐心してカメラを回しつづけた、舩橋監督のエネルギーが見る者に強く伝わってくるからだ(舩橋は9ヶ月間にわたって足繁く避難所へ通い、時にボランティアもしながら双葉町民と信頼関係を築き、彼らの日常を撮りつづけた)。
そして、そうした舩橋の<撮り方>によってこそ、画面にうつしだされる双葉町民らの姿は、見る者に鮮明な印象をもたらすのである。つまり、安易に双葉町民に「寄りそおう」とはしない舩橋の映画的スタンスゆえに、かえって私たちは心を動かされるのだ。
もっといえば、そうした彼の立ち位置ゆえに、たとえ“遠く離れて”いようと、私たちの生きる場所と地続きの<映画の外>の空間で――ヒア&ゼア(ここと他所)というかたちで――今なお避難生活を強いられている町民らの現在進行形の現実を、私たちはまざまざと実感せざるをえないのだ。
したがって本稿の核心は、双葉町民の避難生活の現実と舩橋の<作家性>とが、どんなケミストリー/化学反応を起こしているかを考えることにある。
が、その前にまず、『フタバ~』に登場する避難住民らのプロフィールと、彼らが遭遇した事態の大まかな経緯、そして舩橋が本作を撮ろうとした意図や動機、彼の撮影プロセスについて触れておこう。
2011年3月11日の事故後、第一原発から3キロしか離れていない双葉町は、高濃度の放射能に覆われ、町全体が警戒区域となり、急きょ1423人が約250キロ離れた埼玉県に避難した。さらに彼らはその後、同年3月末に旧・騎西(きさい)高校へと再び移動。つまり地域社会が、役場を含めて丸ごと“遠く離れた”場所へと移転したのだ。
双葉町長・井戸川克隆は、財政が破綻した町を救うため7、8号機を誘致した原発推進派だったが、町民が被曝し、事故が長期化するにつれ、彼の原発に対する考えは180度変わってゆく(<時間のなかで変化してゆくもの>は、本作の要(かなめ)のひとつだ)。
建築作業員・中井祐一さんは津波で家を流され、母を失った。農地すべてを流された父とともに避難所生活を続けながら、震災翌日に予定された救助活動が1号機の水素爆発直後に出された避難指示により中止になったことに、やりきれぬ思いを抱いている。
原発事故が発生したために救助されなかった地震・津波の被災者は少なくない、そう訴えつつ、これからの人生を模索してゆく。そして彼は、避難から3ヶ月後、初めて一時帰宅が許され、広大な廃墟のように無人地帯化した故郷へ帰還する……。
さらに、今は廃校となっている高校の教室に畳を敷き、10~20人で寝食を共にする共同生活がうつしだされる。――避難所の人々の毎日の食事は、支給される弁当だけ。そして肝心の原発事故が収束しない限り(2011年12月に政府による「収束宣言」は出されたが、むろん事故は今なお収束からは程遠い状態のままだ)、人々は故郷喪失者、ないしは“棄民”として、先の見えない、待つだけの、いわば宙吊りの時間を生きるほかはない……。
ではそもそも、舩橋監督はなぜ『フタバ~』を撮ったのか。
この点について、彼は宣伝用プレスの“DIRECTOR’S STATEMENT”で、明快かつ細心に述べている。
――3・11後の日本は<何も見えないこと>への不安を抱えてきた。原子炉の中はどうなっているのか? 放射能はどこへいったのか? 自分は被曝したのか? 被曝したら、どうなってしまうのか? と舩橋は問いかけつつ、隠蔽とも見なされかねない曖昧な情報発信や、事故後のさまざまな事態への混乱した対応ぶりを露呈した政府と東電が、日本国民だけでなく、世界中からも不信を買ってしまった、と述べる。
さらに、国が推進してきた原子力政策が破綻し、危険だという理由から立ち入り禁止の警戒区域となった双葉町の中を、<見ることができなくなって>しまったのだが、要するに<見えないこと>への恐怖や不安との闘いが、ポスト3・11における被災地の人々の日常となったのだとくり返す。
さらに舩橋は、こう書く。
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