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フクシマ双葉町の避難民を記録した傑作ドキュメンタリー、『フタバから遠く離れて』(中)――提示し問いかける記録力、描写力

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 舩橋淳監督がもっとも影響を受け、また敬愛するドキュメンタリストは、おそらくフレデリック・ワイズマンだが、むろん両者の映画手法は、まったく同じというわけではない。

 おもに病院、学校、警察、軍隊、裁判所、劇団といった施設・組織を記録対象にするワイズマンのドキュメンタリーには、2011年11月14日付の本欄でも述べたように、字幕、テロップ、ナレーション、インタビュー、BGMがなく、中心人物も存在せず、また特定のメッセージ、異議申し立て、社会批判もない。むろん何らかの断片的な情報は存在するが、それらが首尾一貫したテーマを形づくることはない。

 まとまりのあるストーリーラインも、明確な時制もない。うつしだされるカットが、そのつど「現在」として積み重ねられていくだけだ(撮り溜めされた膨大なラッシュ・フィルムが念入りに取捨選択され、それぞれの場面は最終的には撮られた順序にこだわらず並べられる。その編集という行為と、しかるべき題材や場所を選び、それらが特定のアングルから撮影されている点にのみ、ワイズマンの<作家的意図>は存在するといえる)。

 こうしてワイズマンの作風をざっと記しただけで、彼の記録映画と『フタバから遠く離れて』の共通点と相違点が明らかになる。

 まず、『フタバ~』にあってワイズマン作品にないもの、それは字幕、テロップであり、それらの文字情報が町民らの避難状況の推移や、季節の変わりめを「春」「梅雨」「夏」「秋」というスーパーで句読点のように区切る、明確な時制ないしは時間構成、あるいは時間的持続感であり、さらにBGMである(ただし『フタバ~』は、撮影された時間的順序そのままにカットが展開される、いわゆる「順撮り」で構成されているわけではないし、ラッシュ・フィルムも相当の量に達しているはずだ)。

 また、ごくごく控えめながら、画面外から舩橋自身が双葉町民にインタビューする部分があるが、前述のように、これまたワイズマン作品には一切存在しないものだ。さらに前述のように、映画の舞台となる場所に住み着き、その土地の住民らと日常的にコミュニケートしながら撮影してゆく舩橋のスタイルは、撮影許可をとってから間を置かずにカメラを回し始めるワイズマンのそれとは大きく異なる。

 いっぽう、両者がともに意図的に排しているのは、通常のTVドキュメンタリーにしばしば見られる、思いを込めたふりをした、抑揚をつけ過ぎた感傷過多、説明過剰なナレーション、リズム感を欠いた平板な編集/モンタージュだ(むろん例外もあるが、TVドキュメンタリーの多くは、ほんらい撮影対象が持っているはずの存在感を引き出せずに終わっている。たとえば作り手の力量不足のためセットアップが拙劣だったり、お手軽だったりするゆえ――むろんドキュメンタリーにも何らかのセットアップが不可欠だ――、聞き手とインタビューを受ける人物はいずれも、通り一遍の、いかにもそれらしい/嘘臭い受け答えしかしない、というように。なお、ワイズマンもTVドキュメンタリーを撮っているが、それらの作品でもワイズマンは、自らの手法を徹底的に貫いている)。

 では、両者に共通しているものはと言えば、ていねいに淡々と被写体を提示してゆくカメラ・アングルや構図の冴え、カット展開の呼吸/リズムの絶妙さだ(これは<記録>であると同時に<描写>であるといえよう)。

 そして、それによって被写体の生々しい存在感が生け捕りにされる(両者が得意とするカットつなぎの一つに、あるシーンを唐突に断ち切り、建物や風景のカットを挿入して場面を転換する印象深い手法があるが、当然ながら、それによって見る者の時間感覚や空間知覚を喪失させ、フィルムの流れを断片化してしまうのは、ワイズマンのほうだ)。

 そしてまた、カメラを回す以前に、被写体に接した監督の中で生まれてくる映画的構想力(ないしは霊感/インスピレーション)のようなもの、たとえば「こう撮ろう」という構えや狙いのようなものが、見る者に時に強く、時にかすかに伝わってくる点も両者に共通している(それは実にスリリングな瞬間だ)。

 そこで見る者が感じとるのも、被写体自体にそなわっている存在感と、監督の<作家性>との、カメラを媒介にした目を見張るようなケミストリー/化学反応にほかなるまい。

 とはいえむろん、撮影中にさまざまな予想外の「偶然」が映り込んでしまうことも、当然ドキュメンタリストは予測しているが、また撮影中にプランが変更になることも、しばしばだ(程度の差こそあれ、それは劇映画でも起こることである)。

 ところで前掲の本欄でも触れたように、舩橋はワイズマンへの10時間超の非常に貴重なインタビュー(2006)をおこなっているが、その中で舩橋は、この途方もなくパワフルで“老獪”なドキュメンタリストから、次のような意味の言葉を引き出している。

――[ドキュメンタリーには社会を変革することなど絶対に出来ない、そんなことが出来ると主張するのは偽りのたわごとだ、だから自分は啓蒙もせず結論も出さずに、現代社会のさまざまな断面を精妙に記録する映画を目指すだけだ](『全貌フレデリック・ワイズマン――アメリカ合衆国を記録する』、土本典昭+鈴木一誌=編、岩波書店、2011)

 そして、きわめて興味深いのは、このワイズマン発言に対して舩橋がこう問い返している点だ。

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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