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フクシマ双葉町の避難民を記録した傑作ドキュメンタリー、『フタバから遠く離れて』(下)――被災者たちの<時間>を写しとる映画的意思 

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 すでに述べたように、『フタバから遠く離れて』では「春」「梅雨」「夏」「秋」という字幕に導かれて、私たちは季節の移ろいとともに次第に<変化してゆくもの>を目にすることになるが、それはたとえば、流れゆく時間のなかで徐々に変わってゆく双葉の人々の心境である(舩橋自身、こう述べている――「この映画は、避難民の時間を描いている。1日や1週間のことではない、延々とつづく原発避難。その宙ぶらりの時間を記録しなければいけない」、と(避難民らが宙吊りの時間を生きつづけていることは、<上>でも触れた)。

 これも前述したが、原発推進派だった双葉町長・井戸川克隆は、原発誘致を深く悔やむようになる。彼はラスト近くで、こう語る――。

 「失ったものはあまりにも大きい、今後は失ったものを勝ち取るだけ、東電にまかなってもらうだけで、けっしてプラスになる話ではない、風評被害で[双葉町という]イメージも失ってしまった、若い人はもう住まない、戻らないって言っている、家系の断絶まで生んでしまった、原発は功と罪でいえば、罪のほうがもの凄く大きいと、今はそう思っている、[……]われわれは放射能にまみれ、まったく放射能にまみれていない東京の方たちが栄えたのだ」、と……。

 また牛の殺処分反対を主張する双葉郡・浪江町の酪農家、吉沢正巳さんは、「この牛たちは生き証人、絶対に生かす」と奮闘しているが、やがてカメラが写すのは、避難した多くの酪農家の飼育場で餓死してミイラ化した牛たちの、無残に「変わり果てた」姿だ。

 さらに、事故直後は故郷に帰りたがっていた人々も、一時帰宅して、まるで黒沢清監督のホラーに出てくるようなゴーストタウンと化した町の光景(土台だけになった自宅や、瓦礫の上にひっくり返ったまま乗っかった船などなど)を目のあたりにし、もう帰らなくていいや、とか、もう過去は過去と割り切っている、帰りたくない、帰ってもいいことない、悪くなるかも、などと、心境の変化を口にするようになる(この一時帰宅を記録する灰暗色に覆われた一連の場面は、暗澹たるロードムービーといった趣だ)……。

 くり返すが、こうした一つひとつの細部に、どんな「メッセージ」よりも雄弁な原子力政策に対する舩橋の異議申し立てが、映画的な強度として宿っているのである。ちなみに本作の英語タイトルは、“Nuclear Nation”(原子力国家)だ。

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 私は『フタバ~』を試写で見た直後、小型核爆弾が

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