2012年11月07日
英語に翻訳した海外文学が、割合簡単で読みやすいのに気付き、最初はチェーホフや漱石を、端からこつこつ読んでいた。最近慣れてきたので、いよいよアメリカ人が書いた評判のミステリーなんか、キンドルで買っちゃって。植草甚一きどり。単純にうれしい。
ところが、だ。このアマゾンが気にくわない。
新品で買った電子「書籍」なのに、古本みたいなんだ。キンドルには、ハイライト機能といって、本の気に入った箇所を自由に範囲指定し「ハイライト」(つまり傍線)を引くことができる。ま、つまり、本への書き込み。自分が傍線を引く分にはいいが、他人のハイライトが、あちこちにある。
小さな数字も添えられている。「この本で、○○人がここに線を引きましたよ」と、ご丁寧に教えてくれている。ほんと、こしゃくというか。ネット企業って、どこもおせっかい。
古本は昔から好きだ。書き込みの残っている本も、嫌いじゃない。
蜂飼耳の『空を引き寄せる石』(白水社)に、秀逸な観察がある。たとえば、本の奥付に、「一九五八年四月五日読了」なんて小さな字で書き込まれているのは、いいなと思う。几帳面な若者だったのか。いまはどんな大人になっているだろう。かつて大切に読んだこの本を、覚えているのだろうか。「知らないひとと手を繋ぎたくはないが、繋ぐかな、という気もちになる」と書く。
書き込みや傍線は、ひとつあれば、たいていほかにも見つかるものだ。逆に、ただ一カ所、という場合はすこし気にかかる。『ガルシン短篇集』には、一カ所だけ、線が引いてある。
「俺はこんな妙なはめになったことは一ぺんもないよ。腹ばいに寝ているらしく、眼の前にはひとこまの地面が見えるだけなのだ」
よりにもよって、なぜこの文章「だけ」に線を引くか? 元の本の持ち主も、なんだか妙なはめに陥ったのか。自由を奪われ、腹ばいにさせられている? ある朝、目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した、ってか。まさか。でも、想像するだにおかしみがわく。傍線じたいが、ミステリみたいだ。
その名も『痕跡本のすすめ』(古沢和宏、太田出版)は、傍線や書き込みなど、前の持ち主が遺していった「痕跡」を妄想し、鑑賞する。大笑いで、病的に面白い。
司馬遼太郎を特集した本の余白に、たったひとこと、赤いボールペンで筆圧強く書き込まれた「負けたくない」。司馬先生に? 国民的作家に? 負けたくない、と? だれですか、この向上心ありすぎの読者は。
別の本。背表紙のタイトルに刻まれた、たった一文字だけの書き込みは「w」。「虹いくたびw川端康成」。
これ、なに? (笑)の意味? 「虹いくたび プッ」みたいなこと? ノーベル賞作家、世界のカワバタも、2ちゃん読者の前では形無しか。
古本に遺された痕跡は、微笑ましい妄想を誘う。対してアマゾンのハイライト(傍線)は、決定的に質が違う。「○○人の人がここに傍線を引きました、感動してました」というのを教えてくれる。
これはつまり、ここが見どころ、読みどころ、ツボですよ、あんたも盛り上がりなさいよホラ、って言ってるんでしょ? バラエティ番組のうるさいテロップ、お笑い番組につきもののスタッフや観客の笑い声、高校サッカー選手権や正月駅伝の絶叫アナウンサー、「泣ける映画」の盛り上がり系サウンドトラックと同じ。泣け笑え感動しろって、強制してるわけでしょ?
おせっかいもいいところ。読書とは、もっとも孤独になれる営為。自分と本とだけの関係性において成立する行為だろうに。ハイライト機能だけじゃない。自分は、かなりなアマゾンのヘビーユーザーだと思うが、チェックした本を元に、「ほかの人はこれも買ってますよ」「あなたへのおすすめはこの本」というサジェスト機能も、ホント、うざったい。
本を読むのは、「人と違った人」になるためなんじゃないのか? 「世間」とか「空気」とかいう、正体の分からない、凶暴な怪物から逃れ、自分一人になる、自分一人で立つために、本は読むんじゃないのか?
貧乏な高校時代、本はすべて神保町の古本屋で買っていた。「痕跡本」への偏愛はよく分かる。さっきパラパラめくっていたら、高校のときに買ったであろうトルストイ『アンナ・カレーニナ』には、前の持ち主が、青い色鉛筆でやたらに線を引いている。推測するに、どうやらこの人、最近失恋した男らしい。第2巻の終わり。恋に破れた失意の女性キチイの描写にも、力強い青線が引いてある。
「キチイはすっかり恢復してロシヤのわが家へ戻ってきた。彼女は以前ほどのんきで、朗らかではなかった。が、落着いてきていた。モスクワでの悲しみも、もはや思い出となってしまった。」
几帳面な字で書き込みもある。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください