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『アウトレイジ ビヨンド』、恐るべし!(2)――暴力描写における足し算と引き算、<機械の恐怖>など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

*前作同様、『アウトレイジ ビヨンド』でも過激な暴力描写がくり返される(前作より暴力描写は抑えられている、と北野武自身や何人かの批評家が言っているが、私にはどうもそうは思えない)。しかしながら、前作もそうだったが、見る者に強烈なショックをあたえるハードな暴力シーンに、けっして“やり過ぎ感”がないのは、足し算と引き算のバランスが絶妙だからだ。

 たとえば、山王会の古参幹部・富田/中尾彬が、山王会の若手幹部・舟木/田中哲司に拳銃で射殺されるシーンで、カメラはしゃがみ込んで頭を下げ命乞いをする富田の背中を俯瞰で撮りながら、拳銃が発射される瞬間には被弾する富田をうつさず、拳銃を撃つ舟木だけをうつすか、あるいは表情を変えずに傍に立っている舟木グループの組員をうつす。つまりこれは、ある種の省略、ないしは間接描写なのだ。

*また、木村一派のチンピラ、ギョロ目の嶋/桐谷健太と三白眼の小野/新井浩文が山王会の連中になぶり殺しにされるくだりでも、二人が殴る蹴るの暴行を受けている途中で画面がブラックアウト(溶暗)する。

 そして数瞬後、画面が明るくなると、刺青を彫った裸身を痛々しく晒(さら)して目を見開いたまま息絶えている二人の姿が、観客の目を射る(むろん、二人が殺された瞬間を含む何時間かを省略するカット展開だが、前作では、大友の情婦・板谷由夏の殺害が、車の座席でやはり目を開けたまま死んでいる彼女のショットだけで表され、彼女が殺されるところは省略されていた)。

 その他にも、黒画面に銃声だけが響く殺しの場面などがあるが、ともかく、間接描写や時間省略によって、それ自体は酷い殺害場面に“やり過ぎ感”がまったく感じられず、しかしなおかつ(かえってそれゆえに?)、それらの場面を見る者は鈍痛のような衝撃を受けるという、奇妙といえば奇妙な反応をしてしまう。

*直接描かれる殺しのシーンでも、銃が発射され被弾した人間が倒れるところを、北野武はほとんどの場合、ごくあっさりと短く撮るだけだが、つまるところ、活劇の肝は<瞬間描写>にあることを彼は熟知しているのだ。

 そして彼はまた、黒沢清監督同様、何を見せ何を省略すれば、つまり足し算と引き算をどう組み合わせれば、フィルムに緊張感と簡潔さが生まれるのかを心得ているのである(前作でも、列車の座席に坐ったチンピラが、列車がトンネルに入った瞬間に暗闇のなかで殺し屋に刺殺される場面があった。

 ちなみに後述するパチンコ屋での加藤殺害や、前作における獄中で大友が刺される場面がそうであるように、ある人物の横に誰かが坐る構図は、北野映画にあっては、その人物が殺傷されることを予告する、禍々(まがまが)しいショットにほかならない。それはあたかも、小津安二郎監督の横並びに二人の人物が坐る穏やかな構図が、とつぜん殺気を帯びてしまうような画面構成だ)。

*最大の見せ場のひとつ、石原/加瀬亮がバッティングセンターのホームベースの位置に置かれた椅子に縛られたまま、

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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