2012年11月15日
しかし、現代のハリウッド・メジャー大作のように、めまぐるしく多方向にカメラが動かない、つまり軸のブレない『ビヨンド』の移動撮影はじつに堂に入ったものだ。
*と、ここまで書いてきて、上野昂志氏がパンフレットに書いたレビューを読み、その出色の出来栄えにうならされた(「声の活劇/そして大友は何によって動き出すのか」)。
そのタイトルが示すように、上野氏のレビューの内容は、私が連載(3)で論じた本作の<声>の演出分析と部分的には重なるが、しかし氏は、私とはまったく異なる論点に踏み込んでいる。
上野氏は、大友/ビートたけしの身の処し方(渡世というべきか?)に即して、本作の<声/言葉>のドラマを読み解いていくのだが、たとえば、こう書く。
――「(……)あちこちに火種を仕かけてきた片岡も、舌先三寸から繰り出す言葉で人を動かしてきたのであり、高圧的にがなり立てる石原も、その声=言葉によって大方の怨みを買ってきたのだ。そのなかで、大友は、独り、行き交う言葉の応酬から身を逸らすことで、この抗争の渦を生き延び[る](……)」。「大友が、木村に組を預けて立ち去るのは、<組織に依存する者は、結局、組織に喰い潰される>ということを、身に沁みて知っているからに他ならない」
言い得て妙だが、ちょっと脱線すると、私がかつて非常勤講師として勤務していた多摩ニュータウンのCH大学でも、怒声の応酬こそないものの、さまざまな小さな抗争(というにはあまりにショボイものだが)が水面下で行われていて、<組織に過度に依存した者が組織に喰い潰される>という事態は、少なからず起こっていたように思われた。
そもそもCH大に限らず、教員室やキャンパスで石を投げれば、論文ひとつ書けない教師に当たるほど――「グローバル化」という意味不明な掛け声とは裏腹に――、大学というシステム自体が就職予備校化しつつ、惰性化し形骸化しているように見えるのだが、これが私の思い込みであることを願うばかりだ。
*『ビヨンド』のバッティングセンターの場面に顕著なように、北野武の<野球>に対する執着には、尋常ならざるものがある。
処女作『その男、凶暴につき』でも、捜査に行き詰まったビートたけし扮する刑事が、黙々と球を打つバッティングセンターが出てきたし、サイコパスの殺し屋、白竜はニューヨーク・ヤンキースのジャンバーを来て歩道橋の階段でたけしとすれ違ったし、初期・北野の最高傑作『ソナチネ』(1993)では、沖縄の目に痛いほど白く輝く砂浜で野球ごっこが行なわれたし、冒頭からカメラが草野球の場面をえんえん撮りつづける『3-4X10月』は、その物語からして、草野球チームと暴力団との対決を軸にする奇形的な<野球映画>だった。
また、現実における暴力集団がしばしば凶器として使用する金属バットが、『アウトレイジ』でも殺人器具として使われたが(ただし、間接的に話題にされるのみ)、ともあれ、『アウトレイジ』シリーズでは金属バットとピッチングマシーンが凶器として使用されるのに対して、上記の初期・北野の3作では、<野球>の場面は
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