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“幻の名画”、ブレッソンの『白夜』ついに再上映!(下)――ブレッソンの映画作法についての補説

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 ロベール・ブレッソンには、彼の映画作法を断章形式のアフォリズム(格言、箴言)で、鋭く簡潔に記した『シネマトグラフ覚書――映画監督のノート』という貴重な著作がある(松浦寿輝・訳、筑摩書房、1987、以下『覚書』)。

 『覚書』でブレッソンは、<編集/カットつなぎ>について、こう述べている――「映画のモンタージュ[編集]を行なうとは、視線によって、人物を他の人物やオブジェに結びつけることである」。

 とりもなおさず、ブレッソンが、いかに人物の視線によるカットつなぎを重視していたかを示す一句だ。

 『覚書』には、被写体の<断片化>についても、こんな一節がある――「存在や事物をその分離可能な諸部分において見ること。それら諸部分を一つひとつ切り離すこと。それらの間に新たな依存関係を樹立するために、まずそれらを相互に独立したものとすること」。これも断片化へのブレッソンの偏愛についての、簡にして要を得た言葉だ。

 あるいはまた、次のような、見せ過ぎることへの批判ともいうべき文章――「すべてを見せてしまうと、シネマ[ブレッソンは自らの作品を「シネマ」ではなく、「シネマトグラフ(活動写真)と呼んだ]は紋切型と化す運命を逃れられない。誰もが慣れ親しんでいる物の見方に従って事物を示さざるをえなくなってしまうのだ」。然り、然り……。

 さらに、以下の二つの切れ味鋭いアフォリズム――「劇は、劇的ならざる諸要素のある種の進行から生まれるだろう」「激情的な発作(怒り、怖れ、等々)の場面は避けること。そうした演技を強いられると、誰もが似たり寄ったりになってしまうのだ」。

 いわばピアニッシモ/最微弱音でドラマを描くことに執着しつづけた映画作家にふさわしい言葉だ。

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 面白いのは、犯罪ミステリーを得意とした、フランスのヌーヴェルヴァーグ出身のクロード・シャブロルがブレッソン嫌いだったことだ。シャブロルは、ブレッソンはなぜドアをあれほど何度もうつすのか、無駄ではないか、フリッツ・ラング(『復讐は俺に任せろ』などの傑作を撮った巨匠)ならワン・ショットで済ませたはずだ、という意味の発言をしている。享楽的で美食家で宗教嫌いだったシャブロルらしい「イチャモン」で、これはこれで説得力がある。

 また、ブレッソンは映画からあらゆる無駄をそぎ落としたと言われるが、ではハワード・ホークス、ラオール・ウォルシュ、エルンスト・ルビッチ(省略の名手!)、そしてフリッツ・ラングら、古典的なハリウッド映画の巨匠たちの「無駄のない効率的な語り」と、ブレッソンの簡潔さとはどう違うのかは、今後問い直されるべき論点だろう。

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 映画評論家の伊藤洋司氏は、「ブレッソンは不必要なものを省略し、重要なものだけを大きく見せ[る]。ただ画面を見ればそれで十分である。ブレッソンとは直接的な表現の人なのだ」と書く(『白夜』パンフレット)。はたして、そうだろうか?

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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