『千と千尋の神隠し』で始まった21世紀(上)
2012年12月01日
冒頭、登場するヒロイン、10歳の少女千尋は、それまでずっと宮崎駿監督のアニメを特徴づけてきた『風の谷のナウシカ』のナウシカ、『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスのような、きりっと引き締まった爽やかな美少女ではない。
むろんこれは宮崎監督の、きわめて意図的な造形だ。当時、監督が観客へ送った公式メッセージにはこうある。
「千尋のヒョロヒョロの手足や、簡単には面白がりませんよゥというブチャムクレの表情」と。そして千尋が、そうしたいつも不機嫌そうなわがまま娘なのは「かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない日常の中で、子供達はひよわな自我を肥大化させるしかない」結果なのだ。
「かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない」のは、すなわち豊かさの帰結である。
高度成長完成後、バブル以降、生まれ育った世代の宿命だといってよい。
ようするに、この『千と千尋の神隠し』で、宮崎駿監督は、「同時代」を清算するためのガチンコ勝負を試みようとしている。
むろん宮崎監督は、70年代、「ルパン三世」のTVシリーズを製作していた頃から、常に同時代と四つに組んできた。しかし、アニメで描かれる物語の時空が、『千と千尋の神隠し』ほどはっきりと、上映されている今の日本だと示された例があっただろうか?
『未来少年コナン』や『風の谷のナウシカ』は、遠い未来を舞台としたSFだ。『魔女の宅急便』は、ヨーロッパと思しきどこかの国の、さほど現在とかわらない時代としかわからない。『ルパン三世 カリオストロの城』は、公開時の70年代末でも、80年代でもかまわないだろう(新聞記事などから、60年代とする解釈もあるようだが、60年代にカップラーメンはない)。『となりのトトロ』は、昭和30年くらいの日本の農村が舞台。『紅の豚』は第一次大戦後のイタリアで、『ハウルの動く城』はもうすこし以前の南欧のどこか。『耳をすませば』(監督は近藤喜文)は、公開時の90年代半ばでもいいが、70、80年代でも、21世紀でもおかしくはない。
しかし『千と千尋の神隠し』は、違う。物語の大部分が、現世とはいちおう無関係な異世界で進行するにもかかわらず、その時代は、バブルが崩壊したものの、豊かさはいまだ消えていない現代の日本でなくてはならない。一家3人が異世界へ迷いこみ、奇妙な建物が散在する野原へ到った時、千尋の父が吐く「テーマパークの残骸だよ。90年頃にあっちこっちでたくさん計画されてさ、バブルがはじけて皆つぶれちゃったんだ」という、宮崎アニメには珍しい時事的なセリフもある。
宮崎駿は、本人の自覚の有無と関わりなく、この作品で同時代を描いてみせた。そして、その同時代が、バブルとその崩壊という転形期であった以上、その作品は、「経済」のドラマとならざるを得なかった。
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