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『カリフォルニア・ドールズ』を見ずに死ねるか!(2)――喧嘩友達もの、ロードムービー的趣向、炸裂する活劇性

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 『カリフォルニア・ドールズ』にも顕著な<喧嘩友達もの>という作劇パターンは、そもそも、古典期(1930~40)のハリウッド映画や日本映画以来おなじみのものだ。

 たとえば、<喧嘩友達>のモチーフを含む映画史上の傑作はといえば、――ハワード・ホークス『赤ちゃん教育』(1938)、同じくホークスによるそのリメイク、『男性の好きなスポーツ』(1964)、やはりホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』(1939)、プレストン・スタージェス『パームビーチ・ストーリー』(1942)、レオ・マッケリー『新婚道中記』(1937)など、男女が丁々発止の舌戦をくりひろげるスクリューボール(変人)・コメディや、ほんとうは互いに相手が好きなのに喧嘩ばかりしている男女をユーモラスに、あるいは哀切に描いた山中貞雄『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935)、成瀬巳喜男『鶴八鶴次郎』(1938)、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』(1966)、和泉聖司『この胸のときめきを』(1988)などなど、枚挙にいとまがない。

 ともあれ、<喧嘩友達もの>が傑作であるための条件とは、いつも喧嘩ばかりして行き違っている彼、彼女らが、じつは気心が通じ合っていること――彼、彼女らは自分たちでさえそれに気づいていない場合がある――を微妙なニュアンスで見え隠れさせる演出がなされていること、その一点に尽きるが、『カリフォルニア・ドールズ』もまた、その条件を完ぺきに満たしている。そしてそれゆえに、デリケートな人情の機微に触れてくる映画なのだ。

 そして、柄にもないことを言うようだが、こういう映画こそ、人生いかに生くべきかを、また逆境に陥ったとき人はいかに身を処するべきかを、けっして説教くさくない話法でわれわれに教えてくれる、貴重な“おとぎ話”なのではないか。

 事実アルドリッチ自身、『カリフォルニア・ドールズ』の3人組の生きざまに関して、こう語っている――「この三人組はごく私的な敗北と絶望を通じて、次のことを学ぶ。つまり、自分たちの幸福と感情的安寧は、お互いの成功および他の二人の幸せと切っても切れない関係にあるのだと……自負心を取り戻すこと、己の自尊心を再発見することを描いているわけだ。……この映画固有の感傷癖は、主人公の一人[アイリス]が“単独ではできない”と結論を下してからかなりの時間が経過するまで、ストーリーの叙述に姿をあらわさない……お互いを信頼し、お互いを尊重することなしに、自尊心を取り戻すことはできない」。

 さて、本連載(1)でも『カリフォルニア・ドールズ』の作劇、状況設定、人物造形の妙について述べたが、以下ではそれの補いとして若干のコメントを付し、さらに前回触れられなかった、本作におけるアルドリッチの名演出のいくつかについて論じてみたい。

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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