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イーストウッドの愛弟子が撮った“スマートな”傑作、『人生の特等席』(上)――物語構成と人物造形のファインプレー 

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 さほど期待していなかった映画が、予想をはるかに上回る出来栄えだったときの喜び。それは過去の傑作に再会し改めて心を動かされるという、あの「約束された幸福感」とはまた違う、何かすごく得をしたようなラッキー感だが、ロバート・ロレンツの監督デビュー作、『人生の特等席』はまさにそうした、いい意味で予想を裏切ってくれた映画だ。

 とはいえロバート・ロレンツは、アメリカでは当代随一の映画作家、クリント・イーストウッドただひとりの愛弟子であり、何本かの師匠の作品の助監督やプロデューサーをつとめた映画人であり、しかも本作は、今年82歳になった師匠当人を主演にすえている。よって私は、本作に関して、おそらく多くの映画ファン同様、ひょっとしたら……という淡い期待を抱いていた。

 がしかし、ロレンツがイーストウッドの弟子であろうとなかろうと、むろんその作品を見ていない時点では、彼の演出家としての力量はまったくの未知数なので、「はずれ」かもという不安も払拭できずに東京のシネコン・新宿ピカデリーに向かった(幸か不幸か、映画ファンの多くは、映画の全盛期から半世紀以上が経過した今日、宣伝や映画雑誌・新聞の映画評がどんなに詐欺的な美辞麗句で煽ろうと――何度も痛い目にあったせいで――、無防備な新作への期待を“自粛”する癖がついてしまっている)。

 ともあれ、『人生の特等席』は「大当たり」だったので、私は気をよくして初見の日の翌日、もう一度新宿ピカデリーに行き、再度この素敵な映画を堪能した。

 では、何が本作を傑作たらしめているのか。以下、その点をめぐって、物語に即して脚本と人物設定の巧みさを見ていく(ネタバレあり)。

――イーストウッド演じるメジャーリーグの名スカウトマン、ガスは、コンピューターによるデータ分析や電子メールにいっさい背を向けた、気難しい偏屈老人だ。ガスはもっぱら、自分の目で若者のプレーを見、また耳でバッターの打球音やピッチャーの投球が捕手のミットにおさまる音を聴き分けることで、将来有望な逸材の発掘にあたる。

 だが皮肉なことに、ガスは年のせいで視力が衰え、目がかすむこともしばしばだが、まだまだスカウトマンとしての自信と矜持(きょうじ:誇り)は失っていない。いっぽう、IT主義の球団幹部フィリップ(マシュー・リラード)は、ガスの頑固一徹なやり方や老齢ゆえの視力の衰えを理由に、彼をお払い箱にしようとしている。

 さらにガスは、これまでぎくしゃくしてきた一人娘、ミッキー(エイミー・アダムス)とどう向き合うか、という難題も抱えていた。が、ガスの窮状を知り、ノースカロライナを目指しての彼のスカウト旅行に同行することになったのは、意外にもミッキーだった(もっとも、ミッキーは弁護士としてのキャリアを積み、法律事務所での昇格を目前にしていたから、父に同行するのは不本意だった)。

 なかなか意思疎通がうまくいかない父娘の旅、という設定(すなわち<葛藤>の提示)に加えて、ガスと球団との契約はあと3ヶ月で切れる、という<タイムリミットの設定>がドラマに緊張感をはらませる。

 しかも今回の旅のガスの目的は、その年のドラフトの目玉と目され、天才的な強打者との評判が高い高校生ボー(ジョー・マッシンギル)の実力を見極めることだから、はたしてガスの眼力と聴力はその若者のバッティングをどう評価するのか、という<サスペンス>も仕込まれるわけだ。

 つまり、ガスをめぐるドラマには、以上に要約した物語の部分だけでも、(1)IT派の球団幹部との対立、(2)父娘の葛藤、(3)彼が高校生スラッガーをどう“値踏み”するのか、という三つのポイントがあり、(1)と(2)はほぼ全編をつうじて並行して描かれ、(3)はラストのクライマックスを形づくることになる。しかも、映画の展開においてこの三つは、上記のようには図式化しえない精妙な構成によって、互いに関連しあう物語的ファクターとなっている。

 たとえば、父娘がくだんの高校生スラッガーのバッティングをスタンドで観察することは、二人があれこれ会話を交わし、互いの心理的距離を縮めていく一つのきっかけになるし、娘/ミッキーはガスを厄介払いしようとしている球団幹部のフィリップ同様、いつもスマホにかじりついていて、ガスに「少しは前を向け」(名セリフ!)、などとからかわれる今風のキャリアウーマンとして描かれる、というように。

 これは要するに、<葛藤・対立とその解消>を軸にドラマを語る映画にあっては、人物間の対比/対立をまずは鮮明に浮き彫りにすることを、師匠の薫陶(くんとう:感化)を受けた(あるいは師匠にコントロールされて?)、ロバート・ロレンツがそつなく行なっているからだ(ちなみに、いくつかの物語的ファクター<複数のシークエンス、人物>が互いに関係しあい、互いを結びつける<媒介>になるという“スマート<聡明>な”作劇は、イーストウッドの超傑作、『ヒアアフター』(2010)において最高の成果をあげていた(「奇跡の超傑作『ヒアアフター』、遂にDVD化!」2011年11月7日付を参照)。

 ガスとミッキーの旅の目的地であるノースカロライナには、各球団のスカウトマンが集まっていた。その中には、かつてガスがピッチャーとしてスカウトし、今はスカウトマンに転向したジョニー(ジャスティン・ティンバーレイク)の姿もあったが、イーストウッドとロレンツという師弟関係の、いわば映画内への投影であるかのようなガスとジョニーの関係も、この映画を面白くしている活力素のひとつだ。

 ジョニーは過去においてもガスから多くを学んだが、さらに再会後、ガスという<媒介者>の力を借りて、ミッキーとの恋を

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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