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イーストウッドの愛弟子が撮った“スマートな”傑作、『人生の特等席』(下)――予定調和と変化球、“食えないヤツ”イーストウッド、など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 『人生の特等席』における伏線の冴えという点では、ラスト近く、プロの世界で即戦力として通用するほどの投球ぶりを披露しスカウトされる、ラテンアメリカ系の寡黙なピーナッツ売りの青年リゴ(ジェイ・ギャロウェイ)を、前半でさりげなく登場させる演出が光る。

 リゴは、他人を見くだしたような暴言を吐く例の自信過剰な高校生スラッガーに対して、ピーナッツの袋をかなり離れた距離から、相手がかろうじてキャッチできるくらいのスピードでビシッと投げつけ、図抜けた肩の強さを印象づけるのだ。

 そして、サウスポーのリゴは、ラスト近くの見せ場で、スカウトらが見まもるなかテスト登板し、くだんの高校生スラッガーに対して、マウンドから豪速球とキレのある変化球を投げ込み、その生意気野郎をきりきり舞いさせるのである(リゴの緩急自在の投球が生意気野郎をクルクル空振りさせるそのシーンの、畳みかけるような歯切れよいカットさばきも最高)。まったく、なんて粋な演出だろう。

 そして高校生スラッガーが、変化球を打とうとしてバットを振る瞬間に手が泳ぐ(ぶれる)という致命的な弱点を、ガスだけがその透徹した眼力で――すでに前半の試合の場面において――、見抜いていたのだった(本作の原題“TROUBLE WITH THE CURVE”、すなわち「カーブに難あり」に示されているように、ピーナッツ売りのリゴと高校生スラッガーの対決/対比<[寡黙VS大口など]>も、重要な物語的ファクターだ)。

 これまた、なんとも憎い作劇だが、しかも、リゴの豪腕に注目したのは、ガスではなく、彼の影響で野球通になっていたミッキーだというプロットも、まさに小さく鋭く曲がる変化球のようにひねりが利いている。

 さらに、ガスの<眼力>は――視力は少々衰えてはいるものの――、いまだ健在であることが証明された結果、IT主義のいけすかない球団幹部、フィリップが解雇されるという顛末(てんまつ)も痛快なカタルシスをもたらす。

 ……というように、本作ではいくつもの物語的ファクター(葛藤とその解消、媒介すること、伏線を張ること、キャラクター間の対比など)が、互いに連動しあい、相乗的にかけあわされることで、物語を、というかフィルムの流れをたえず活気づけ、われわれをハラハラさせたり、スカッとさせたり、ほろりとさせたりするのだ。

*ハリウッド映画の王道である楽天的で予定調和的なストーリーを語る本作に、なぜ既視感やステレオタイプな感じが皆無なのかといえば、すでに述べたとおり、さまざまに工夫された細部が、そのつど見る者の意表を突くように演出されるからだ。

 もっと言えば、本作では、予定調和的な結末を迎えるまでのプロセスが、<思いがけない細部の連続/意表を突く変化球の連投>によって描かれるからだが、このことは別の場所で述べたように、イーストウッドの傑作『インビクタス 負けざる者たち』にもみられる映画術だ(またその点に関するかぎり、本作がさきに本欄(「『カリフォルニア・ドールズ』を見ずに死ねるか!」2012年11月29日~12月4日付)で取り上げたロバート・アルドリッチの超傑作、『カリフォルニア・ドールズ』によく似ていることも、もはや言うまでもなかろう。ちなみにむろん、ガスとミッキー親子も<喧嘩友達>の一変種だ)。

*ハリウッド特有の予定調和的にハッピーエンドに着地する楽天的なストーリーは、それが巧みに演出されている限り、アート系映画(イヤな言葉だ)の変に奇をてらった「不可解な」物語などより、ずっと映画的価値が高いものだ(フォード、ホークス、ルビッチ、キャプラ等々の、ハリウッド古典映画の巨匠たちの作品を見れば、それは明らかだし、しょせん劇映画というものは、現実では起こりえない“おとぎ話”を描くものである)。

*さらに興味深いのは、ロレンツが、イーストウッド直伝の(?)ミステリー・タッチによるフラッシュバック/回想形式で、ガスとミッキーの秘められた過去を描いている点だ。そのサスペンス豊かなシーンの内容や撮り方は見てのお楽しみ、ということで書かずにおくが、自ら、不気味なもの、禍々(まがまが)しいものにも大いに惹かれる、というロレンツは、やはり師匠譲りの“映画的遺伝子”の持ち主なのかもしれない。

 そういえば、目のかすんだガスが球場を見るところで、

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