2013年01月08日
各紙誌の映画評も高く評価しているが、中には「あれっ?」と思う記述が散見される。評者が元のミュージカルを観ていないのか、舞台版から元々あった卓抜な工夫や、現代ミュージカル(あるいはミュージカル映画)ではもはや常識となっている手法に感心している趣があるのだ。
映画と舞台は別物とはいえ、このミュージカルは日本でも1987年の初演から2011年にかけて2572回の上演を重ねており、リピーターがどれだけいるかはわからないが、のべ数百万人もが見ていると推定される。原作ミュージカルを度外視しての批評はいかがなものか。そこで、舞台版との違いを踏まえながら、この映画のよさを論じてみたい。
よく知られているように、ヴィクトル・ユゴーによる原作小説は、激動する19世紀前半のフランスを舞台とし、貧困にあえぐ人々や理想に燃えて立ち上がる若者らを活写した骨太の物語だ。舞台版でも、善と悪、国家と個人、権力と民衆、高潔と俗悪、夢と挫折など、さまざまな二項対立が組み合わさって壮大な人間ドラマを織りなす。
パン一斤を盗んだ罪で19年間も服役させられたジャン・バルジャンと、脱走した彼を執拗に追う監察官ジャベールとの因縁を軸に、娼婦ファンテーヌとその娘コゼット、コゼットの里親テナルディエ夫妻と、その娘エポニーヌ、長じた彼女が思いを寄せる学生マリウスらの宿命が綴られる。
このように多数の庶民を登場させ、貧困や悲劇を真っ向から見据えたシリアスな社会派ドラマは、それまでのミュージカルにはなかったと言ってよい。画期的な作品だったのだ。
映画版が優れているのは、まず、こうした貧しい群像の描写が細密で、鬼気迫るダイナミズムを帯びている点だろう。冷たい水につかりながら船を曳く服役囚の労働の凄絶さ、煤けたかぐろい街並みのうそ寒さ、貧民街の猥雑な卑しさなど、映像ならではのリアルな説得力がある。同時に、市民が蜂起する「民衆の歌」の場などは、多数の群衆(エキストラ)が広場を埋め、熱狂する迫力を醸し出している。
第二に、このミュージカルは全編、せりふなしの歌だけで紡がれているが、歌うことが自然に感じられるようにシークエンスが工夫されている。例えば、プロローグを経て1823年、モントルイユ・シュール・メールの工場で歌われる「一日の終わり」。この歌は物語の導入部を兼ねており、仮釈放を破って名を変えたバルジャンが今や市長となって工場も経営していることを伝えると共に、私生児コゼットに仕送りしなければならないファンテーヌが馘首されるまでをつづる。
舞台では一場だが、映画では、貧困にあえぐ街頭の庶民を映し出してから、工場内のトラブルに移行する。それによってファンテーヌが悲劇に直面する社会的背景がしっかりと刻みつけられる。また、舞台ではバラードは客席に向かって歌われるが、このミュージカルの代表的バラード「夢やぶれて」は、映画ではファンテーヌが娼婦に身を落とした夜に涙ながらに歌い、哀切さを一際にじませた。ファンテーヌを演じたアン・ハサウェイの歌唱が素晴らしい。
第三に、敵役であるジャベールの存在が際立ったことが挙げられる。話はやや脱線するが、このミュージカルは85年ロンドン初演の前に、80年初演のパリ・オリジナル版があったことに触れたい(パリ版とロンドン版の違いについては、拙著『進化するミュージカル』 <論創社>で詳述したので、関心のある方はご参照ください)。
当初のパリ版では、ジャベールが単独で歌う曲は、第2幕で川に投身する場での「自殺」1曲しかなかった。ところが、トレヴァー・ナンとジョン・ケアードの潤色によって英国のロイヤル・シェークスピア・カンパニー(RSC)が練り直した際に、第1幕に「星よ」という曲が加わった。この改良は多義的な効果を及ぼした。「星よ」は、夜空に瞬く星々に誓って正義の真情を歌い上げたメロディアスなナンバーで、魅力的な歌が一曲加わった。そして敵役のジャベールにも華歌をもたせた。
さらに第2幕でジャベールが身を投げる瞬間に、
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