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[2]<千尋>というバブル、<カオナシ>というバブル

『千と千尋の神隠し』で始まった21世紀(中)

浅羽通明

■「千」の誕生――荻野千尋が精神のぜい肉を落とすために

 前回に続き、アニメ映画『千と千尋の神隠し』について考えてゆく。

 このタイトルにある「千と千尋」とは何だろうか。

 千尋は主人公である10歳の少女の名。では千は?

 千尋は引っ越しの途中、両親とともに異界へ迷いこむ。疑西洋とアジアと古い日本が混ざったレトロな歓楽街風ゾーンで、両親は並べてあるご馳走をむさぼり喰っているうちに豚と化してしまう。やがて暗くなり灯がともって街は活気を帯び、さまざまな妖怪のごとき者たちが往来を充たし、千尋も帰れなくなる。

 パニックへ陥る彼女を、正体不明の美少年ハクが救い、こう諭す。町の中央にそびえる巨大な湯屋の主である魔女へ雇ってもらうよう懇願せよ、今は、それ以外、生き残る途はないと。

 「ここで働かせてくださいっ!」。生まれてはじめて、絶望の底からサバイバルへ向かって小さなからだをぶつける千尋の訴えを不承不承認めた魔女湯婆婆は、契約書に書かれた荻野千尋という名を、「ぜいたくな名だね」と吐き捨てるようにいい、「今からお前の名は千だ」と宣告する。

 近代的な社員採用ではない。月給が出るわけでもない。相部屋と食事が保証されるだけの女中奉公である。千尋が少年ならば丁稚奉公だ。そう考えれば、これは決してフィクションではない。昭和30年代の喜劇映画『番頭はんと丁稚どん』を観ると、大阪の老舗薬種問屋で丁稚は皆、名前一文字に「松」をつけられ、主人公崑太は「崑松」として働かされている。大学出で番頭(幹部)候補生の清治ですら、店では最初は清松、小番頭となると清七と呼ばれるのだ。

 平成の世でバブル気分が抜けない両親に「荻野千尋」として甘やかされてきた娘は、前近代の過酷な労働を仕切る湯婆婆から見れば、「見るからにグズで甘ったれで泣き虫で頭の悪い小娘」でしかない。その実体からすれば、「千尋」という名はなんとも身分不相応な「ぜいたく」なのである。女中なら「千」で充分だ。呼びつけやすいという経済的合理性もある。

 すなわちこの物語は、「千尋の神隠し」ではないのだ。いつも庇護してくれる両親から切り離されたばかりでなく、平成日本の豊かさという私たちが生きる日常の大前提をも外された場所へ「神隠し」された少女の冒険なのだから。

 あらゆる上げ底が抜けていって、はだかの等身大までに自分が還されたところからの出発。監督宮崎駿は、そうした状況をとりあえずよいこと、必要なこととして描いている。監督は、この千尋など90年代の作品に頻出する少女ヒロインを「等身大」と称されるのを不快がっていた。さもあろう。平成日本に等身大の子供などいない。上げ底の安逸をむさぼる「ぜいたく」な坊っちゃん嬢ちゃんばかりである。

『千と千尋の神隠し』でベルリン映画祭の金熊賞を獲得した宮崎駿監督=2002年

 映画のプログラムのみならず、あちこちに掲載された監督のマニフェスト「不思議の町の千尋―この映画のねらい」にはこうある。

 「困難な世間の中で、千尋はむしろいきいきとしてゆく。ぶちゃむくれのだるそうなキャラクターは、栄華の大団円にはハッとするような魅力的な表情を持つようになるだろう」

 すなわち神隠しによって、精神のバブルという贅肉が落ちるのだと。

 しかし、である。それはこの物語の一面でしかない。映画は「千の神隠し」でもまたないのだから。

■カエルとナメジクとオットセイ――宮崎駿の視たニッポンの会社

 千にされた千尋が働かされる巨大な湯屋「油屋」は、八百万の神さまたちが疲れを癒しにくる温泉ヘルスセンターのような施設だった。目黒雅叙園と道後温泉を合成し、チベットのポタラ宮殿的な規模へバージョンアップしたごとき「油屋」の描写は、絵の力で観客を魅せるものであるアニメ映画、それも1ミリのディテールをもおろそかにしない描きこみが積み上がって壮大な光景を出現させて止まない宮崎駿ワールドの真骨頂だろう。

 和洋漢折衷、いやごちゃまぜの日本的バロック(悪趣味ともいう)な建築意匠を背景に行き交う牛鬼、なまはげ、春日神、おおとりなど、水木しげる翁が描く妖怪とまがう姿で私たちの目をひきつける日本古来の神々。幾多の広間へ続々と運ばれ空間を満たしてゆく山海の珍味、満漢全席といった言葉を文字通り極彩色のパノラマとして展開したような膨大なごちそう。これでもかと繰り出される過剰さが、物語の一背景として過ぎてしまう贅沢さ。

 その光景のなかには、千の上司や先輩同僚である油屋の従業員たちもいる。番頭や下男、下足番など法被を着た男たちは、みなカエルだ。女中か仲居、また湯女であるらしい女たちは、平安朝の女官と神社の巫女を合わせたような風体だ。設定では彼女らの正体はナメクジなのだという。

 彼らについて宮崎監督はこんな風に語る。

 「湯屋にいるカエル男たちはね、背広を着ている日本のおじさんたちにそっくりでしょう」(『別冊COMICBOX vol.6 千と千尋の神隠し 千尋の大冒険』ふゅーじょんぷろだくと)

 徳間康快社長の葬儀委員長を務めた時、監督は挨拶して通る首相や外務大臣をはじめとする来客みんなが、蛙にみえてしかたなかったという。リボンをつけて挨拶している自分も蛙だなと思ったそうだ。

 「僕らの日常ってカエルやナメクジみたいなもんじゃないかと思っているんです。自分も含めて難しいことを言ってる蛙のようなものだと思ってますから」(『ロマンアルバム 千と千尋の神隠し』徳間書店)

 また、こうしたインタビューで宮崎監督は繰り返し、あの湯屋はジブリで、千尋はそこへいきなり放りこまれた新人の女の子のようなものだと語っている。これは、湯屋がアニメ制作現場だとか千尋がクリエイターの卵だとかいう比喩ではあるまい。

 この時の「ジブリ」は、「日本の会社」といった程度の意味で持ちだされている。すなわち、大人たちのくすんだ「世間」だ。かつて金子光晴は文壇「世間」を口が臭いオットセイの群れに喩えたが、宮崎駿には会社にうごめく日本人たちがカエルとナメクジに見えたのである。

■名前とは何か――「千」の有用性と「千尋」の歴史性

 湯屋で働く男女は皆、千尋同様、また昔の丁稚や女中同様、湯婆婆に名前を奪われている。千尋の教育係とされた気のいい姉貴分はリンとのみ呼ばれている。ここでは、贅沢な名は削ぎ落とされて、業務上の呼び名のみが残される。日本の企業社会で、名前よりも社名と肩書き、部署が重要とされるように。

 最初に千尋の味方をしてくれた美少年ハクは、「湯婆婆は相手の名を奪って支配するんだ」と、千とされた千尋へ明かす。だから「いつもは千でいて、本当の名前はしっかり隠しておくんだよ」と。「ハク」も「千」同様、本当の名前ではない。しかし彼は、「千尋」に相当する本当の名前をどうしても思い出せないという。

 ここで私たちは、湯婆婆の支配する世界のマイナスの面を教えられる。

 千尋は豊かさの上げ底をいったん取り払われて、無力無能で使えない自分へ還元されなくてはならなかった。彼女は自分のミニマムを思い知り、しかし覚悟を決めて湯屋で働き始める。そしてグズでのろまながら全く使えないわけでもない等身大の自分を好きになり始める。それは上げ底ではない確かな自分の実力で得た達成感だ。彼女が「いきいきとしてくる」のは、達成感から生まれる自信と喜びゆえだろう。

 だが、そこには落とし穴がある。千となった千尋の自信と喜びは、誰かに使われる者が、誰かの役に立てたゆえの充実であろう。それを知った彼女は、いつしか千へとなりきり、千尋という名を忘れはじめていたのを、ハクに教えられる。それは、「豚の姿をした両親に平気になっていく」(宮崎駿「不思議の町の千尋―この映画のねらい」)過程と同時進行だ。

 わが国のそこここ、殊に会社には、この過程の果てに元の名前を忘れた男女があふれている。だから誰もかれもが、カエルでありナメクジなのである。

 湯屋で働く大勢のカエル男たちナメクジ女たちも、気前いい客が落とす砂金を血眼で奪い合い、イモリの黒焼きの為ならなんでもする、物欲と色欲ばかりを募らせて、その浅ましさを隠しもしない連中として描かれる。

 それでも、千尋がこうした世間と直面していったん千となる必要を宮崎監督は描いた。 「働くことによって、周りとの繋がりや、自己の価値観が持てる。だから他人の飯を食うことは意味のあることだ」と、『キネマ旬報』(2001年8月15日号)インタビューで語る。

 しかし監督は、こうした世間を全面肯定してはいないのだ。そんな湯屋の、そして日本の現実を、「自分も一ナメクジだ」と認めるような諦観による肯定をしていても。では、何が足りないのか?

 それは、元来の名前を忘れまいとする意志である。自分の本名を忘れる者などいないと思うかもしれない。だが、世間に組み込まれて呼び名や肩書でつながる関係に埋没して久しい大人たちは、働いて必要とされるようになる以前、役に立つ現実の自分とは違うところで生まれた自分の名前、千尋なら千尋という名に両親が託した意味はもちろん、千尋という古代までさかのぼれる日本語がまとってきた歴史と文化の深さ、広がりへ潜ってみる姿勢などとっくに忘れて久しいはずだ。

 だが、そうした意志を抱くならば、現実を生きながら、それを超える視座、すなわち現実を相対化して考えられる精神の余裕、働く現実とはまた別次元の「周りとの繋がりや自分の価値観」を持った自分を持つのはそう困難ではない。

 「千と千尋の神隠し」最後のクライマックスで、私たちはその威力を知る。これは次回の話題である。

 というのは、今回はそれを扱うまえに『千と千尋の神隠し』で考察しておくべきもうひとつのテーマが残っているからだ。

 それはこの物語の陰の主役といってもよいほどの印象を観客皆へ残すキャラクター、「カオナシ」である。

■原始、貨幣は性器だった――経済人類学的「カオナシ」論

 物語の序盤で、中央に湯屋がそびえる異界へ迷いこみ、ハクに手を取られて湯屋へ渡る橋を駆ける千尋。周りにはもう湯屋を訪れる様々な神々が現れ、カエル男やナメクジ女も行き来している。彼らに混じって橋の欄干近くにいる何か。顔の位置には白っぽい仮面、からだは黒いマントをまとったようだが、半ば透けている。それがカオナシの初登場だ。

 必死の歎願かなって湯屋の下働きを始めた宵、千尋が桶の水を庭へ捨てようとガラス戸を開けると、そこにはひっそりとカオナシが立っている。千尋は客のひとり(一柱?)かと思い、湯屋内へ入れるようにガラス戸を開けておいてやる。無理もない。カオナシの姿は湯屋を訪れる異形の神々とさほど変わらない。

 カオナシは静かに湯屋へ侵入する。そして物語の中盤、金塊をばらまいて湯屋従業員たちを狂乱の渦へ巻きこみ、暴飲暴食してからだを膨張させ、制止する従業員を呑みこんで暴れまくり、湯屋を混乱と恐怖へと叩きこむ。

 「カオナシは誰のなかにもいる」という宮崎監督のことばを付してCMでも用いられたこのキャラクター。その印象、意味についてはすでにいろいろと語られている。

 カオナシの不気味で哀しい仮面の表情は、白塗りのピエロにも、ムンク描く「叫び」の顔にも見える。宮崎監督が作詞した「カオナシの歌」(イメージアルバムにムッシュかまやつの歌で収録。アニメでは使われていない)は、「さみしいさみしい」「きみたべちゃいたい」と嘆息するもので、巨大化して暴れるとき「千、ほしい!」と千尋を求め叫ぶ姿とあわせて、依存症的なさみしがりや、重度のストーカーを連想する人が多いのも自然である。

 だが私は敢えて、楕円形の仮面姿のこのカオナシは

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